スタッフレポート

スタッフレポート

歴史街道倶楽部 歴史の街ウォーク歩いてたどる歴史街道の旅

~京街道シリーズ~第5弾 「伏見宿(伏見みなと公園)から菖蒲の節句発祥の地 藤森神社へ」報告

1/

かつては城下町として、また京都・大阪・奈良を結ぶ交通の要衝として栄え、東海道57次の宿場町でもあった伏見は、今も所々に往時の面影を残しています。
今回は、京街道シリーズ第5弾として、4月20日、京阪電車・中書島駅をスタートし、伏見港から伏水街道を経て藤森神社までの約6キロの道のりを歩いてきました。

■伏見みなと公園(三栖閘門)
陸上交通が発達していなかった江戸時代から明治時代にかけて、舟運は重要な輸送手段でした。伏見港は、京都~大阪間を結ぶ淀川舟運の流通拠点であり、京都の玄関口として繁栄していました。
1918年(大正7年)に始まった淀川改修工事により、宇治川右岸の観月橋~三栖間の築堤がなされ、伏見港と宇治川との船の運航ができなくなりました。
淀川へとつながる宇治川と濠川との間を船が運航できるようにとの目的で、1929年(昭和4年)宇治川と濠川との合流地点に三栖閘門が建設されました。
完成当時から石炭などを輸送する船が年間2万隻以上も三栖閘門を利用し、京都~大阪間の輸送に重要な役割を果たしました。
昭和30年代、陸上輸送の発達とともに淀川舟運による貨物輸送は次第に減衰し、1962年(昭和37年)には淀川舟運はなくなります。さらに1964年(昭和39年)、上流に天ヶ瀬ダムが完成すると、ついに三栖閘門は70年の歴史に幕を下ろしました。
■角倉了以水利紀功碑
国内諸河川の開発整備に従事した角倉了以が、1611年(慶長16年)、京都二条より鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開削して、京都の中心部~伏見間の水運を開通させました。
この碑は、了以の功績を顕彰するため、海漕業者有志により1899年(明治32年)に建立されたものです。
江戸時代を通じて、京都と伏見とを結ぶ主要な物流手段として多くの舟が行きかっていましたが、1894年(明治27年)に琵琶湖疏水が通じると貨物輸送量は減少し、1920年(大正9年)に水運は廃止されることとなりました。今は、往時の面影もありません。

1/

■電気鉄道事業発祥の地碑
1895年(明治28年)2月、京都岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会の観客輸送のため、下油掛町~京都塩小路館に琵琶湖疏水蹴上発電所の電力を利用した日本で初めての電気鉄道が開業しました。同年4月には官営鉄道七条駅~岡崎間の木屋町線が開通し、淀川を蒸気船で入洛した人々は、ここから電車で博覧会会場へと向かいました。
先に開業した伏見線が「わが国に於ける電気鉄道事業発祥の地」となりました。
所要時間は40分、運賃は3区に分けられ、1区1銭(現在のお金で約200円)でした。
■油懸地蔵(西岸寺)
油懸山(あぶらかけざん)地蔵院西岸寺と号する浄土宗の寺で、1590年(天正18年)、雲海上人によって創建されました。
昔、門前で転んで油桶を倒した山崎の油商人が、残った油をこの地蔵尊に注いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたことから「この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いがかなう」と言われ、商売繁盛を願う人々からの信仰を集めています。
地蔵堂は、鳥羽伏見の戦いで類焼したため、1978年(昭和53年)に再建されたものです。

1/

■大黒寺
真言宗東寺派の寺院で、通称を薩摩寺(さつまでら)と言います。
初めは真言宗の寺で、「長福寺」と言いましたが、1615年(元和元年)、薩摩藩主島津義弘の守り本尊「出国大黒天」に因んで、薩摩藩の祈祷所として、大黒天を本尊とし寺名を「大黒寺」に改名しました。
幕末に西郷隆盛・大久保利通が会談を行った部屋、寺田屋事件で犠牲となった薩摩九烈士の墓があります。
■撞木町遊郭跡(大石良雄遊興の地)
赤穂藩再興をはかったが受け入れられず、山科に閑居していた大石良雄が、遊興に耽ると見せて討ち入りを画策した地と伝えられています。討ち入り以後、「撞木町の密計は成就する」との風評がたったと言います。
1596年(慶長元年)、豊臣秀吉の許可により、伏見に遊郭が開かれましたが、慶長の大地震や関ケ原の戦いの影響を受けて衰退しました。その後、徳川家康の許しにより、この地に再興しました。
現在は、入口の石柱と「大石良雄遊興の地 よろづや」の石碑を残すのみとなっています。
■欣浄寺
清涼残(せいりょうざん)と号する曹洞宗のお寺です。
当初は真言宗でしたが、応仁の乱(1467年)後に曹洞宗となり、天正・文禄年間(1573~92)に浄土宗に改宗、さらに文化年間(1804~18)に曹洞宗に改宗しました。
本堂には「伏見の大仏」と呼ばれる丈六の毘廬舎那仏、阿弥陀如来像などが置かれています。
深草少将の屋敷跡とされ、今も残る池は小野小町の美しい姿を映した「姿見の池」、池の東の道は「少将の通い道」と呼ばれています。
「小野小町に恋をした少将は、『百夜(ももよ)通い続ければ、晴れて契りを結ぶ』との約束を信じて、山科の小野小町庵(現在の随心院)まで通い続けるが、九十九夜目に大雪で凍死してしまった」という悲恋の伝説や、「訴訟のある者はこの道を通ると願いが叶わない」などの言い伝えが残っています。

1/

■墨染寺
「桜寺」の異名も持つ日蓮宗のお寺です。
平安時代の歌人・上野岑雄(かんつけのみねお)が、関白藤原基経の死を悼んで「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだ場所で、その歌の通りに墨染色の桜が咲いたと伝えられています。本当に墨染の桜が咲いたなら、悲しみに暮れている心にどれほどの慰めになったことでしょうか。
花冷えの続いたこの春、ウォーキングの当日は、まだ薄桃色の桜が咲き誇っていました。
■藤森神社
伏見区深草に鎮座する、5月5日の駈馬神事や菖蒲の節句発祥の地として有名な神社です。
創建年代には諸説ありますが、203年(摂政3年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国深草の里の藤森に纛旗(とうき:いくさ旗)をたて、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが発祥とされています。
駆馬、菖蒲→勝負の連想から馬と勝負事の神社として競馬関係者・ファンの信仰を集めており、競走馬の絵馬が多数奉納されています。また、舎人親王を祀ることから学問、特に受験で勝運をもたらす神社とされています。

アーカイブ

2024年
2023年
2022年
2021年
2020年
2019年
街道を歩く
おでかけガイド
時空の旅・歴史街道
スタッフレポート