時空の旅 伊勢―神宮は今日も生き続けている

古代

日本史を旅する①

伊勢―神宮は今日も生き続けている

日出ずる地への鎮座

 75年の人生を過去に向かって20回重ねれば、私たちは五世紀の時代にたどり着くことができる。30年を一世代として自分のルーツをさかのぼれば、ほんの六十七代前の祖先は紀元前の時代にいた。日本社会の生い立ちは、古代といえども、私たちが通常にイメージするほど遠いものではない。

 伊勢には、今もいたる所に神話が生きている。町の人は伝承に詳しく、軒先には一年中しめなわが飾られている。市民の半分近くが神式の葬式をおこなうのも、ほかの地方にはない特色である。

 伊勢神宮は八百万(やおよろず)の神の統率者、天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる内宮(神体は三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ)と、収穫の神・豊受大神(とようけおおかみ)をまつる外宮からなる。伊勢地方一帯にある別宮、摂社、末社、所管社は百二十五社にのぼり、全国8万数千の神社のほとんどが、ここの神社本庁に包括されている。

 神話によると、天照大神は、天の瓊矛(ぬほこ)で海水をかきまぜて大八洲(おおやしま)国(日本)を創ったイザナギの尊・イザナミの尊から生まれた。その六代目の子孫がカムヤマトイワレヒコの尊、すなわち神武天皇だとされている。

 天照大神は、もともと皇居の中にまつられていたが、崇神天皇のときに疫病が流行し、「神と人との同居がよくない」とのお告げによって、大和国笠縫邑(かさぬいむら)に遷された。次いで、垂仁天皇二六年(BC4年)、よりよい鎮座の場所を捜して皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が大和、伊賀、近江、美濃などをめぐった後、伊勢五十鈴川に奉遷されたという。当時の大和の人にとって、伊勢は東海に面した陸地の果て、日出ずる地だったのだろう。

 外宮はそれから482年後、雄略天皇二十二年、天皇の夢に現れた天照大神のお告げによって、丹波から遷された、という。

 もちろん、このような伝承を歴史上の事実とする確証はない。伊勢神宮の鎮座と伝承には、古代人のどのような願望や政治的思惑がうずまいていたのだろうか。

年齢を取ることのない日本

 さて、木文化の代表建築として有名な伊勢神宮は、石文化を代表するパルテノン宮殿としばしば対比される。

 廃墟と化したパルテノン宮殿に比べ、伊勢神宮は今日も行き続けている。そこには、写真や映像では決して再現できない神々しさと新鮮さがある。その独特の雰囲気は、信心の有無にかかわらず、すべての人々にある種の感動を与えてくれる。

 『ル・モンド』のロベール・ギラン氏は、これを「(躍動的で騒々しい日本とは違う)もう一つの日本、動かない日本、年齢を取ることのない日本」と表現した。

 5500ヘクタールの宮域は、五十鈴川の水源となっている暖帯性混交林に蔽われた山々を含み、伊勢市の3分の1に及んでいる。そこは、「きわめて人間的で、現代の一切の虚飾をきびしく排除した、極限的な原始」(国学院大・樋口清之名誉教授)の空間である。ここでは、米、酒、野菜、果実、塩、アワビなどはもちろん、土器(かわらけ)や織物などが古代さながらに自給自足されている。調理の火も忌火屋殿で木をすりあわせておこしているという格式が素晴らしい。

 20年に一度、両正宮と14の別宮を建て替え、装束や神宝を新しいものにする式年遷宮(しきねんせんぐう)は、13500本のヒノキを要し、350億円の浄財を必要とする。殿舎の朽損をおぎない、神威を発揚するための大イベントである。2013年に62回目が執り行われたこの神事が始められたのは女帝の持統天皇時代。すでに日本は十分に「国際的」な時代だった。

 古代という時代は、私たちのイメージほど遠い時代でもなければ現代人が自惚れるほど幼稚な時代でもない。伊勢神宮で現在も活き続けているさまざまなハードとソフトを見て、私はそう感じた。

時代を超えた「何か」がある

 一般庶民の参宮は、中世になって許されるようになり、関所の廃止後、ますます盛んになった。

 「伊勢まいり 大神宮へも ちょっとより」という伊勢古市(ふるいち)遊郭の古川柳にもあるように、当時のお伊勢まいりは、信心だけの旅ではなかった。いわば信仰と娯楽を兼ねた観光ツアーだったらしい。これを支えたのは、今でいう旅行代理店やDM、セールス業の役割を果した「御師(おんし)」たちである。安永六年(1777年)の記録では、伊勢神宮の御師がもつ総檀家数は、全国戸数の9割に及んでいたという。

 伊勢まいりは、慶安三年(1650年)から、ほぼ60年の周期で爆発的に流行した。本居宣長の『玉勝間』によると宝永二年(1705年)には5日間で352万人、『文政神異記』では文政十三年(1830年)に一年で480万人が伊勢に参拝したと記されている。当時の人口と交通事情からみると、万国博以上の大異変といえる。

 これらの発端は、いずれも女、子供、雇人たちが親兄弟や主人に無断で参宮する「抜けまいり」であった。当時の庶民はそんな機会に封建制度の主従関係や村落共同体の束縛から逃れ、一時の開放を味わったのだ。このような民衆のエネルギーは、天保の大飢饉後、各地に一揆の嵐をまきおこし、やがて幕末の「ええじゃないか」へとつながっていく。

 天皇家が淡い存在でしかなかった徳川時代に、将軍の祖先をまつる日光まいりが爆発せず、なぜはるかに遠い神々をまつる伊勢まいりが爆発したのか。伊勢には、時代を超えて日本人が求める「何か」があったからだろう。

内宮・宇治橋
  • 宇治橋
  • 宇治橋から五十鈴川を眺める
  • 五十鈴川御手洗場(いすずがわみたらし)
  • 内宮・境内
  • 外宮・入口の鳥居
  • 外宮
  • おはらいまち・おかげ横丁入口
  • おかげ横丁