時空の旅 京都府向日市 古代の都・長岡京
平安~室町時代
歴史の現場を訪ねよう
古代の都・長岡京
長岡京は、平安京に遷都(せんと)されるまでの10年間、桓武(かんむ)天皇の下で乙訓(おとくに)の地に営まれていた都です。わずか10年間という短命に終わったが、発掘調査の成果により、都城としての機能を十分に備えた、本格的な都であったことが分かっています。
【桓武天皇の登場】
奈良時代後半の政治的混乱を招いた称徳(しょうとく)天皇の死去後、藤原百川(ももかわ)らによって光仁(こうにん)天皇が擁立(ようりつ)されました。これは長く続いた天武(てんむ)系皇統から天智(てんじ)系皇統への転換でした。さらに天智系皇統を維持するため桓武天皇の擁立がはかられ、天応(てんのう)元年(781)即位します。渡来系氏族出身の母をもつ桓武天皇は、中国の天命思想を背景に新都の造営を決断します。仏教勢力を抑えて天皇権力を強化し、律令政治の立て直しをめざしました。
【都の造営と遷都】
延暦(えんりゃく)3年5月16日、藤原小黒麻呂(こぐろまろ)・藤原種継(たねつぐ)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)ら8人が乙訓郡長岡村の地を視察しました。遷都のためです。この地が新都に選ばれたのは、水陸交通の便がよいことがあげられますが、桓武天皇とつながりの深い渡来系氏族が多く居住していたことも理由に考えらます。
視察の翌月、6月10日には藤原種継・佐伯今毛人らを「造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)」に任命して、都城の造営が開始されました。諸国に命じて今年の調庸(ちょうよう)と造営人夫の費用を長岡宮に運ばせ、新京に宅を造るために公卿(くぎょう)らには正税を与え、宮内にある百姓の私宅には立ち退き料を払いました。造営に必要な用材は、平城京の副都である後期難波宮(なにわのみや)を解体して淀川を使って運びました。
朝堂院西第二堂の柱跡の下層から牛車のわだち跡が出土している。工事をせかされ、雨上がりのぬかるみ道を重い土木建築資材を積んだ牛車が行き来していたようすが想像されます。
視察からわずか半年後、大極殿(だいごくでん)など、とりあえずの必要な宮殿建物が完成し、11月11日、天皇は長岡宮に移幸しました。
【京のなかの宮】
長岡京全体は、天皇の住まいである内裏(だいり)と官庁街からなる宮域(きゅういき)と、小規模な役所や貴族・都市住民の居住域である京域(きょういき)に分けられます。
宮域は京の北側中央に設けられた東西約1km・南北約1.6kmの範囲で、周囲を築地大垣で囲まれ、宮城門が設けられた。南面中央に大極殿(だいごくでん)と朝堂院(ちょうどういん)、東側に内裏があり、これを取り囲むように主要官庁が配されています。
【大極殿・朝堂院】
大極殿は、政務や儀式の際に天皇が臨御(りんぎょ)する建物です。北側に控えの間の後殿があり、四方を廊下付きの塀(回廊:かいろう)で囲われていた。石敷きの前庭には元旦朝賀に7基の宝幢(ほうどう)が立てられました。閤門(こうもん)とよばれる正門があり、その南に太政官院(だじょうかんいん)(朝堂院)の区画があります。東西に4堂ずつ、計8堂の朝堂が置かれ、中央に広場(朝庭:ちょうてい)がありました。太政官や八省の官人、親王らが政務や儀式に臨席する場です。朝堂院南門から左右に続く回廊は途中で南に折れ曲がり、その先端に平安宮の「翔鸞楼(しょうらんろう)」に相当する楼閣(ろうかく)建物が付属したことが、平成17年(2005)に発見されました。このような楼閣が付く門は長岡宮で初めて出現するもので、桓武天皇が中国の都城を理想としたことの表れといえます。
【内裏(だいり)】
内裏は、天皇と皇后、それに仕える女官たちの住まいである。土塀の両側に廊下を付けた築地回廊(ついじかいろう)で囲まれた内郭と、これを一回り大きく囲んだ外郭があります。内郭中央やや南寄りの正殿は、梁間3間、桁行9間、床面積約242坪という長岡京最大の建物で、平安宮の紫宸殿(ししんでん)に相当します。その他の殿舎配置も平安宮の内裏にほぼ一致することがわかりました。外郭は瓦葺きの土塀で囲われ、石敷きや導水施設が設けられていました。
【条坊制と都市設計】
京域は東西4.3km、南北5.3kmの範囲で、中央を南北に通る朱雀大路の東側が左京、西側が右京です。基本設計図の条坊制に基づき、幅24mの大路と幅9mの小路が東西南北に規則正しく配置され、道路に囲まれた一辺約120mの土地(1町)を基準にして施設が配置されました。小規模な役所や離宮(りきゅう)、貴族の邸宅、寺院、都で働く人々の家などがあり、東西2ヵ所に市(いち)も設けられた。当時の人口は約5万人と推定されています。
【人々の住まい】
都に住む皇族や貴族には広い敷地が与えられましたが、下級官人には1町の区画を32や64に細分した敷地が位階に応じて与えられました。これらの宅地には建物と井戸、敷地を画する柵や溝、ごみを捨てる土壙(どこう)などが設けられ、トイレ遺構も検出されてます。地方から労役にかり出された人たちの宿所は官司の周辺に設けられ、兵士たちの駐屯地もありました。長岡京の都は、さまざまな階層の人々が暮らす大都市でした。
(出典:向日市文化資料館企画・発行『向日市の歴史』(平成30年(2018)3月初版発行、令和元年(2019)6月第2刷発行)
【向日市文化資料館】
古代の都・長岡京の宮跡の一角に、遷都1200年を記念して昭和59年(1984)に開館した。常設展示で出土遺物や模型により長岡京の歴史と文化を学ぶことができるほか、長岡京以外の時代やテーマの催しも開催しています。
アクセス
阪急東向日駅から徒歩8分、JR向日町駅から徒歩15分
開館時間
午前10時~午後6時(入館は午後5時30分まで)
休館日
月曜日(休日の場合は開館し、その翌日を休館)、資料整理日(毎月1日。ただし、土曜日・日曜日・月曜日の場合は、次の火曜日が整理日)、年末年始(12月28日~1月4日)
【長岡宮朝堂院跡(朝堂院公園)】
朝堂院(ちょうどういん)は、宮の中心にある国家の政務・儀式を行う場所である。朝堂院は南北に長く、長方形と正方形を重ねた形をしています。北側の長方形の区画を大極殿院、南側の正方形の区画を朝堂院と呼ばれています。長岡京時代の朝堂院は、東西に4つずつ、計8つの建物がありました。ここは、西側の一番南の4番目の堂にあたることから、朝堂院西第四堂といいます。
西第四堂跡は、昭和57年(1982年)の発掘調査により確認されました。平成4年(1992年)に国の史跡に追加指定され、現在は、朝堂院公園として整備されています。公園内の案内所では、案内員が常駐し史跡解説をしています。
アクセス
阪急西向日駅から北へ徒歩1分
案内所の利用時間
毎日 午前10時~12時・午後1時~5時(年末年始、夏期に不定休)
【長岡宮大極殿跡・小安殿跡(大極殿公園)】
桓武天皇が政治を司ったところが大極殿(だいごくでん)です。小安殿(しょうあんでん)は、大極殿の後ろの建物を意味し後殿(こうでん)とも呼ばれています。昭和39年(1964年)に国の史跡に指定され、現在、大極殿公園として市民の憩いの場となっています。
平成30年度には、大極殿公園と北大極殿公園をつなぐ回廊が公園として整備され、案内板などが設置されています。
アクセス
阪急西向日駅から北へ徒歩5分
【長岡宮築地(ついじ)跡】
長岡宮の役所を囲む塀(土塁)の跡で、昭和56年(1981)に国の史跡に追加指定されました。長岡宮内裏内郭築地回廊の真南・一直線上にあたり、長岡京の建物が規則的に建築されていたことを裏付けています。長岡京のなかで唯一地上に痕跡をとどめる貴重な遺跡です。
アクセス
阪急西向日駅から東へ徒歩3分
【ウォークマップ 「むこうまちを歩こう!」桜の径コース】
平成14年(2002)に、向日市の市制施行30周年記念事業の一環として、市内の散策マップを文化資料館で作ることになり、その時に集まった市民グループとともに実地調査を重ねながら作ったウォークマップの一つです。平成31年(2019)3月に一部改訂しました。