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メンバーズフォーラム

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湯けむりの仲間

湯の歴史には、伝説・説話があり、実話があります。その里には、歴史を感じさせる社寺、城、人物、伝統産業も・・・・。堅苦しい歴史の話やむずかしい話も、ちょっぴり柔らかくして語り合いながら・・・地元の人たちの話を聞きながら・・・ぶらり散歩してみませんか。湯の里で肩をはらず、世俗を離れて湯に浸り、リフレッシュして明日への活力を養いましょう。

主宰者
会員No.300356 和田 保・清子(兵庫県神戸市)

活動報告

湯けむりの仲間 実施報告

実施日:2019年6月9日(日)

京都府「長岡京紀行」を終えて。
令和元年6月9日、天気は良好。仲間たちは長岡京駅に集合。ガイドさんとの合流後、散 策へ。最初は長岡京発見の地。記念碑のまえで説明をじっくりと聞く。発見者は地元出身で 教師でもあった中山修一である。西国街道を南下、神足ふれあい町家は江戸時代の旧家で、 国登録有形文化財に指定されている。そのあと、伝・与市兵衛墓へ。本来は高野聖寄宿供養 名号碑と呼ばれる石碑だが、地元では「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平の義父、与市兵衛の 死を悼んだ供養塔と伝える。仲間たちは恵解山古墳へと進む。五世紀前半に造られたと推 定される前方後円墳だが、埋葬者は不明。史跡公園として市民に親しまれている。
村上天皇の勅命によって改名されたという勝龍寺。大干ばつ、大飢饉の年に千観上人の祈祷で雨が降り、龍神に勝ったといわれたのがその理由である。現在の勝竜寺城公園にあった勝龍寺城は、南北朝時代に細川頼春が築城。後年、明智光秀の娘、玉(ガラシャ)が細川忠興のもとに嫁いだ城である。続いて神足神社へと行く。ここには「桓武天皇の夢」による創建伝説がある。昼食のあと、サントリービール工場 学へとバスに乗って行く。見学後試飲。工場の側には山崎合戦時の明智光秀の本陣跡がある。
次の兵庫県「明石紀行」は、九月八日に実施。明石城の櫓見学と淡路島の絵島へのミニクルーズ、町散策の一日。詳細は次号で。

投稿者 
会員No.300356 和田保・清子(兵庫県神戸市)

湯けむりの仲間 実施報告

実施日:2019年3月10日(日)

「奈良県御所市『御所紀行』を終えて」  
3月10日、小雨模様。降ったり止んだりである。仲間が近鉄御所駅に集合。久しぶりに会い、 わいわいがやがや楽しく話している。ガイドさんと合流して「御所まち」へ出発。江戸時代初期に形成された陣屋町という。仲間には未知の世界である。
最初に訪ねたのは町の木戸跡に平成20年に復元された高札場。不思議なことに、書かれ た文字が浮き出ている。ガイドさんに聞くと、墨で書いているので文字は数百年経っても消えず、長い年月、風雨にさらされて地の板が削られて、文字だけが浮き上がってくるという説明であった。このあと、高札を保存している旧家で原版を見せてもらったが、まさにはっきりと文字が見える。この家には天秤ばかりがあり、江戸時代の関西の通貨は銀本位で、量目によって価値が定められたといい、その銀を量るためのものという。
この町は環濠集落である。水路によって囲まれている。町名、通り名が当時をしのばせ、旧家に残る古い絵図を見せてもらうと、みごとに区割りされた町であったことがわかる。当時の産業として綿の栽培のほか、菜種油の生産があり、最近まで操業していた工場の建物も残っている。見ごたえのある旧家が 並び、まさに江戸時代の町を歩いているよう。路地の奥から、侍が、商人が、長屋の人々が、ひょっこり顔を見せるのではないかと錯覚にはまる。  この町のことを語れば、まだまだ尽きない。 百聞は一見にしかず。ぜひ訪れて散策してほしいと思う。そして、私は思う。この町を、ここに残る歴史文化を、絶対に破壊してはならない。 官民の総力を挙げて、保存・修復に取り組むべしと。「湯けむりの仲間」一同、その思いを胸に 御所の町を後にした。
追記。当日、昼食に関しても商工会の会議 室を利用できるようにお世話をいただき、また、有意義で楽しいガイドをしていただいた、楠様に仲間一同で感謝の御礼を申し上げます。  
6月9日には「京都府長岡京行」を実施。報告はまた次号にて。

投稿者 
会員No.300356 和田保・清子(兵庫県神戸市)

湯けむりの仲間 実施報告

実施日:2018年12月9日(日)

京都府亀岡市「明智光秀のゆかりの地を訪ねてⅡ 亀岡紀行」を終えて。
 12月9日、うすら寒い日だが、JR亀岡駅に仲間が元気に集合。互いに近況をワイワイガヤガヤ。ガイドさんの案内で最初に明智光秀の居城であった亀山城のお堀端へ。ここで城についての説明を聞く。次に文化資料館に向かい、旧城下の秋の大祭、亀岡祭の山鉾の紹介映像を見る。京都祇園祭の山鉾とまた違った雰囲気である。
 その後、亀山城へ。途中、広場で光秀と亀岡についてじっくりと説明を聞き、天守跡へと向かい見学。九月の「明智光秀のゆかりの地を訪ねてⅠ 福知山紀行」で訪れた福知山城と同じく、亀山城の石垣もいろいろな石を組み合わせて築かれていた。
 城跡にある大本教の本殿でお祓いを受けて散策を続ける。途切れ途切れの堀を見ながら昼食場へ。ゆっくりと昼食をとったあとは、町散策である。寺町を中心に歩き、各寺の説明を受け、一部の境内散策をする。寒さが募ってきたので、早めに見学場所である丹山酒造の酒蔵へ。試飲で体を温めて買い物をして駅へ戻り、次回を楽しみに帰路につく。
 福知山といい、亀岡といい、光秀の痕跡が良い方に残っている。やはり、謀反人といわれてはいるが、たぐいまれなる善政家ではなかったろうか。

投稿者 
会員No.300356 和田保・清子(兵庫県神戸市)

湯けむりの仲間 実施報告

実施日:2018年9月9日(日)

「明智光秀のゆかりの地を訪ねてⅠ 福知山紀行」を終えて。明智光秀の大河ドラマが決定したが、私は、光秀に対して前々から興味を持ち、資料を集めていた。そして、光秀の居城の一つがあった、京都府の福知山を、この9月9日、仲間とともに散策した。残念なことに散々の雨で早めに終えたが、自宅に戻り、改めて光秀の資料を読み返してみて、私なりの考えを述べてみたいと思う。
 光秀自身の出生の地というところが四か所、また「産湯」を使ったとされるところが四か所もあり、出自も定かでないという(一部確定したという説もある)。また、敗走中に死したにもかかわらず、生き延びて活躍したという説もある。しかし、私は思う。明智光秀としての人生は、史実に記すように山崎合戦で亡くなったことは確かである。たとえ名前を変えて生き延びたとしても、光秀の名前で生きた人生は、そこで終わりを告げたのではないか。
 信長に仕え、山崎合戦に死するまでは、史実として残る。けれど、出生から信長に仕えるまでと、山崎合戦
以後の光秀に関することは、伝説としてみるべきだと思う。そして、それを追い求めて行くロマンを、光秀は我々後世の光秀ファンに残したのかもしれない。
 京都府亀岡市「明智光秀のゆかりの地を訪ねてⅡ 亀岡紀行は12月9日に催行。やはり光秀の居城であった亀山城跡などを探訪。詳しい報告は次号にて。

投稿者 
会員No.300356 和田保・清子(兵庫県神戸市)

湯けむりの仲間 実施報告

実施日:2018年6月10日(日)

滋賀県「近江八幡紀行」を終えて。6月10日、仲間は元気に近江八幡駅に集う。バスに乗車して散策場所に向かう。待ち合わせのバス停を一つ間違い、ガイドさんが手を振って追いかけてきた。挨拶をして近江商人の町へ。さすがは豪商、その居宅の凄さに感心しながら、彼らの活躍の説明を聞く。当時の近江商人の生活は現代では考えられないものであったろう。それだけに信用第一とし、お互いに戒め合って商いをしてきたことがよくわかる。また、橋の架け替えや、神社仏閣への寄進など、地域貢献も忘れることがなかった。その町並みも、現在は重要伝統的建造物群保存地区となっている。
 昼食後、ロープウェイで八幡山に登る。
山上に瑞龍寺という古刹と八幡城跡がある。この寺と城の歴史を紐解けば、地域の歴史的背景がしのばれ、戦国時代末期の全国制覇への武士たちの戦いなどが頭をよぎっていく。
 下山後、日牟禮八幡宮へ参拝する。三間社流造の本殿である。創建は131年、または991年ともいわれているが、不思議なことに式外社である。古くから近江商人の信仰を集め、二大火祭り「左義長祭り」と「八幡祭り」は国の無形民俗文化財である。
 最後に「かわらミュージアム」に行く。瓦についていろいろな話を聞いて、ふと思い出したのは、福知山にある鬼瓦の展示館のことである。瓦にも多くの種類があり、これを機にさまざまな建物の瓦について学べればと思う。紀行を終えて思うのは、事前に下調べをなし、現地にて学び、そして復習する。これが歴史を学ぶ基本ではないかと。心に留めて帰路に就く。
 9月9日には、2020年大河ドラマの主人公にちなんで「明智光秀のゆかりの地を訪ねてⅠ福知山紀行」を実施。詳しい報告は次号にて。また、12月9日(日)に「明智光秀のゆかりの地を訪ねてⅡ亀岡紀行」を予定。

投稿者 
会員No.300356 和田保・清子(兵庫県神戸市)