35 和歌山城

文:鶴田純也(放送作家)
1997年11月号掲載


 和歌山へ行ってきたと言うと、決まって「遠かったでしょう」と返ってくる。実際にはJRでも南海電車でも大阪の中心から一時間足らずで和歌山市に着くのだが、京阪神に住む人はたいてい和歌山を遠いところだと思っている。
 その理由の一つは、電車にせよクルマにせよ、和歌山に向かう道筋が泉南の海沿いから一転して和泉山脈の南端の寂しい峠を越えるからで、急に開けた視界に和歌山の市街を望むと昔の旅人のような「はるばると来た」という思いが湧くのである。
 それからこれは私の臆測に過ぎないが、御三家のひとつ紀伊徳川家の城下という二五〇年に及ぶ歴史が、他の関西の諸都市と較べて異質なせいもあるのではないか。それは市民にとっては大きな誇りでもあろうが、明治以降の世の中の流れの中ではこのことが災いし、あたら巨大な商業都市が不便な位置に甘んじなければならなかった、という事情がありはしないか。尾張徳川の愛知県、水戸徳川の茨城県に較べて、藩の名前が県名に残ったのは幸いだったにしても。
 栄光の歴史の象徴・和歌山城は市街の中心にそびえている。弘化三年(一八四六)、天守閣が落雷によって焼失したとき、当時の幕府は天守閣の再建を認めない方針だったが、御三家ということで特に許したという。その天守閣は昭和二〇年(一九四五)の空襲で、再び炎上した。今建っているのは、昭和三三年(一九五八)に再建されたものだ。虎伏山の頂にピタリと位置を占めて動かない天守閣を見ていると、城を失ったときの市民の切ない思いが伝わってくるようだ。
 徳川家康の大一〇男、頼宣が紀伊・伊勢五五万五〇〇〇石を領して和歌山城に入ったのは元和五年(一六一九)のことだった。天下の台所・大坂と江戸を結ぶ海路の重要な部分を紀伊徳川家は支配することになった。それだけに幕府の警戒の目も油断なくそそがれていたことだろう。城や城下を拡張する工事があまりに大掛かりだったので、頼宣は疑惑を受けたこともあったという。
 天守閣の一・二階には紀伊徳川家にゆかりの武具甲冑、古文書などが展示されている。最上階の三階から眺めると、つくづく和歌山の街は広いと思う。紀ノ川の周辺はもとより海岸線までずっとビルや住宅、工場が埋め尽くしているといった印象だ。
 城の北東にひろがる繁華街を、ぶらくり丁という。天保元年(一八三〇)以来の歴史があり、かつては古着商が多く、商品を軒にぶら下げているのを紀州の方言で「ぶらくる」と言ったので、この不思議な地名が生まれたらしい。
 その反対側、城をはさんで南西の方角にあるのが、和歌山県立近代美術館と県立博物館である。私の記憶が確かならば、以前は和歌山大学がこの辺りにあったはずだ。近ごろはどこの街でも学生は嫌われ者で、地元に金を落とす範囲で、なるべく遠くへ行ってもらいたいと思われているようだ。
 しかし、この二つの建物はなかなかお洒落で、美術館にはイタリアンレストランもある。味もサーヴィスも悪くない。いや、食い倒れの街を自称するどこかの公共施設の、既得権だけで営業をつづけているような食堂のそれとは雲泥の差と言ってよい。城に向かっては総ガラス張りで、天守閣を間近に望みながらワインのグラスを傾けるのは気持ちのいいものだ。
 博物館の常設展示は、古代から現代までの和歌山県の歴史を民衆の視点から追った内容。順路の右側には政治や文化の流れが通史的に、左側にはそれぞれの時代の個別のテーマを掘り下げる形で展示がおこなわれている。急いでいるときには右側だけを見学するか、左側の興味のあるテーマだけを見て帰るという方法もある。和歌山の多様で奥深い文化や産業を知るために一度は訪れたいところである。