18 淀川

文:鶴田純也(放送作家)
1996年6月号掲載


 淀川とは正確にはどこからどこまでを言うのだろうか。琵琶湖に発して大阪湾にそそぐというが、琵琶湖から流れ出るときの名前は瀬田川である。やがて宇治川と呼ばれ、桂川や木津川と合流して、やっと名実ともに淀川となるが、それも束の間、大阪の市内に入ると毛馬で新淀川と大川に分かれる。大川は寝屋川と合流し、中之島で堂島川と土佐堀川に分かれ、また一つになって安治川として大阪湾に流れ込むのである。
 かつては市内の流れはもっと複雑で、大川から運河を引き込んでいたから、もっとたくさんの名前を持っていた。道頓堀もつまりは淀川の水である。
 淀川ほど、その流れる場所場所で名前を変える川もあるまい。それはこの川が古くから流域の人々と密接に関わってきたことを物語る。川が人の暮らしを支え文化を育てる一方で、人がこの川を飼いならしてきたという感じである。淀川の流れは日本の歴史そのものといってもよい。
 琵琶湖の湖底には太古の遺跡が眠っていると聞く。天智天皇はその湖のほとりに都を定め、壬申の乱では大友皇子が瀬田の唐橋のたもとに陣を張った。『源氏物語』の舞台となり、藤原頼通がその川の流れを平等院に引き込んだ宇治川。それが淀川となる水無瀬には後鳥羽院が離宮を営んだ。豊臣秀吉が明智光秀を倒し、利休が妙喜庵に茶室を作った山崎。
 山と山とが迫って京都と大阪とを隔て、三つの川が合流するこの辺りが中世の混乱の歴史の舞台となったことは、決して偶然ではあるまい。
 江戸時代を通じて三十石船の往来が盛んで、今も船宿の残る枚方、与謝蕪村のふるさと毛馬を過ぎて大川に入ると右岸に造幣局や明治天皇を迎えた泉布観があらわれて急に近代の様相を帯びてくる。新旧のビルの間を高速道路の突き抜ける中之島は、近代と現代のせめぎ合うところといえようか。
 そして近未来を予感させるような、河口付近の海遊館をはじめとするさまざまな新しい施設。思えばウォーター・フロントなどという言葉の使われるはるか以前から、大阪は水のほとりで繁栄してきたのであった。
 ところで、こう見てくると中之島をいかに後世に遺すかということはとても重要なことに思える。それは現代の大阪人がどのように生きたかを象徴する場所になるかも知れないからだ。にもかかわらず中之島の景観といえば一つ覚えのように引き合いに出される中央公会堂をはじめ大阪府立図書館や日本銀行など、多少なりとも文化の香りを放つ建物は、実はすべてこれ戦争前に建てられたものなのである。もっとも、これらを後世に伝えることも現代の大阪人の大切なつとめにはちがいない。
 中之島の景観で私がもっともさびしく思うのは、クルマの往来は激しいのに、人のぬくもりを感じるにぎわいのないことだ。出船千艘入船千艘といわれた昔が返るはずもないが、水の上にボートを浮かべる人も、もっといていいはずである。それというのも、大きなホテル以外、中之島にレストランやショッピングの場がほとんどないからではないだろうか。水辺の都心という恵まれた場所にそうした店があまり見当らないのは不思議である。いや、恵まれ過ぎた場所だからそうなってしまったのかも知れない。
 私は中之島の橋のたもとに小さな仕事場を持っているが、ビルの持ち主は悪名高い住専の貸付け先である。住まいは土佐堀川の分流に沿っているから淀川の水を見ない日はない。子供のころは洪水に見舞われて、ふだんは座敷に上げない飼い犬を二階に引っぱり上げて、家族とともに水の引くのを待った記憶がある。風呂も、毎日飲む水も、もちろん淀川の水である。死ぬまで大阪で暮らすとなると、まさに淀川に生まれ淀川に果てることになる。
 淀川を大切にしたい。