29 平城宮跡

文:鶴田純也(放送作家)
1997年5月号掲載


 私が子供のころ、平城宮跡を国道のバイパスが通る計画が持ち上がって反対運動が起こり、新聞紙面をにぎわしたことがある。
 「いちいちこんなこと言ってて、今生きてるわれわれの暮らしの発展はどうなる」
 と呟いた父に反発したことを覚えているが、それは大人の言うことには一応逆らってみる年齢だったからに過ぎない。正直な話、今にいたるまで私にとって平城宮跡は、近鉄電車に乗って奈良に行くとき、市街に入る手前に見えるただの広い野ッ原でしかなかった。
 こんどその野ッ原の西の隅にある平城宮跡資料館を訪れ、史跡としての価値の重要さに遅まきながら納得がいった次第である。ここは平城宮と平城京の発掘調査の成果を展示する場である。発掘品や復元模型が並べてあるのだが、それだけでは私のような素人は納得しない。懇切丁寧に説明されればされるほど、どうしてそんな大昔のことが見てきたように分かるんだろうという疑念が湧いてくる。この資料館ではそういうレベルの見学者を置いてきぼりにしないよう、古代の真実の見えてくるメカニズムの解説にもよく気配りがされている。
 金を使って無闇やたらに映像化するのが近ごろのはやりだが、ここでは手描きの絵や写真、模型といったオーソドックスな手法も多く用いられている。何より自分たちの研究の成果を少しでも多くの人に分かってもらおうという心で見学者に対してくれていることがありがたい。しかも無料である。考古学という、庶民には無縁なものと誤解されがちな学問に税金を使う以上、こうしたサービスを忘れてはならないと思う。
 ここを出て見る野ッ原は、今までとはまったく印象が異なっていた。古代の夢を無限に語る大地。もっともただの野ッ原としても、今どきこれだけの空間は充分に価値がある。歩いているだけで気分が爽快だ。子供も犬も思いっきり走り廻っている。あちらこちらでお弁当をひろげる家族連れ、カップル。歌の練習をしている人もいる。そこに打毬に興ずる貴族や、そぞろ歩く大宮人の姿がかげろうのように二重写しになって見えてくる。空から落ちてくる小鳥の声。これは今も昔も変わらないだろうか。いやいや一三〇〇年前にはこは人工一〇万人の大都市だったわけで、小鳥たちは周辺のもっと自然のたくさんあるところに棲んでいたかも知れない――と、さまざまな思いが頭をよぎる。
 発掘の成果を生かして史跡の一部は復元され、また一部には建物の基壇や礎石のみを配し、あるいは柱列を植え込みであらわすなど奈良時代をしのばせるいろいろな工夫がこころみられている。近鉄の線路の南には朱雀門を復元する工事の大きな覆いが見える。完成したなら、白い壁に赤い柱がさぞ美しく眺められることだろう。
 史跡を西から東へ横切って、法華寺をめざす。
 
 律令国家の中心として天平文化を華麗に花開かせた平城京。元明天皇のもと右大臣の地位にあってその遷都を推進したのが藤原不比等だった。法華寺はその不比等の邸宅があったところで、娘の光明皇后が聖武天皇をはじめとする人々の菩提を弔うために創建し、総国分寺である東大寺に対して総国分尼寺となった。かつては大伽藍を構えていたらしいが、平重衡の兵火にかかるなど、しだいに衰微して今はひっそりとしたたたずまいである。

 本尊の十一面観音立像は光明皇后の姿を写したといわれるが、豊かな顔に唇が赤く彩色され、片足を踏み出そうとしているのか腰つきがしなやかで、仏様にこんなことを言うのも気が引けるが何とも色っぽい。右手が長く見るものを誘うように伸びているのも気がかりだ(何がだ)。この本尊は厨子を特別公開する日にしか拝めないが、ふだん拝観できるいわゆる御分身像も充分に妖艶である。