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32 八坂神社
文:鶴田純也(放送作家)
1997年8月号掲載
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室町時代の末期から江戸時代にかけてさかんに描かれた洛中洛外図には必ずといっていいほど祇園祭の様子が描かれている。主要な建物や場所、たとえば御所とか二条城とかは「内裏」「御城」などと記してあるけれど、かんじんの「八坂神社」の文字は見当たらない。八坂神社という呼称は明治以後使われたもので、それまでは祇園牛頭天王社とか祇園感神院と呼ばれていたのだとか。近ごろはやりのお宝鑑定ではないが、古いはずの屏風に「八坂神社」と書かれてあれば、それは偽物ということになる。
祇園といえばすぐに思い浮かぶのが平家物語の「祇園精舎の鐘の声」。精舎はお寺のことだから、神仏習合の時代にはむしろ仏教的な色彩の方が濃かったものと思われる。それが今では祇園といえば、門前の茶屋から発達した花街を指すのだから面白い。修行者の絶えない道理である。
石段をのぼって西の楼門から四条通りの繁華を振り返ると、ここが神社の正面玄関のように思え、またここからお参りする人が圧倒的に多いのだが、神社としての正門は南にある。南の門前には昔、二軒の茶屋が向き合っていたので二軒茶屋といったらしいが今あるのは一軒だけで、「二本さしてもやわらこう祇園とうふの落としざし」と地唄にもうたわれた田楽を名物にしている。祇園祭にはこの店から稚児餅が奉納されるならわしである。 |
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祇園祭といえば七月一七日の山鉾巡行が有名だが、一日のお千度から三一日の夏越祭まで、七月いっぱいがまさに祭月なのである。この間にスケジュールをよく調べて京都を訪れると、さまざまな行事が見られる。七月に入ると各山鉾町で祇園囃子の稽古が始まる。夕暮れ、街の辻で聞くその音色は、炎天下の山鉾巡行のときに聞くのとはまたちがった趣がある。巡行が終わると観光客は汐の引くように帰ってしまうが、その日の夕方には神社から三基の神輿が出て、お旅所にとどまる。コンコンチキチンの悠長な調子とはまったく異なる勇壮な神事である。
各地にはいろいろな祭りがあり、地元の人にとってはそのどれもが日本一だ。大阪生まれの私にとっては、ギャル神輿の破廉恥やトラック渡御の無粋はあれど祇園祭よりも天神祭の方に愛着が深いのは当然である。しかし、客観的に見て、スケールといい品格といい祇園祭に敵う祭りはない。世界にも稀な文化的に高度な祭りといってよいだろう。費やされるエネルギーも金も大変なはずだが、京都の人は誰のためでもなく、みずからこれをたのしむために涼しい顔をしているのだ。さすがに千年の都の民である。 |
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祇園祭の最も古い記録は平安時代の貞観年間(八五九〜八七七)にさかのぼる。疫病がはやったので神泉苑で牛頭天王をまつったのが、祭りの起源とか。神泉苑には龍神が住むという池がある。
八坂神社の現在の祭神はスサノオノミコトとイナダヒメ、八柱の御子で、それが三基の神輿となるのだが、スサノオノミコトの垂迹である牛頭天王をはじめ、その妻や子にあたる神々もすべて水に縁のある龍神の性格を持っているという。八坂神社の本殿の下には深さの知れない池があり、龍が住んでいるともいわれる。そっと床下をのぞきこんでみたが、暗いばかりでよく分からなかった。
参拝を終えると自然と足は祇園へ。祇園は四条通から北が先に開けたというが、しっとりとした雰囲気を残しているのはむしろ南の方である。たそがれどきの一力茶屋の角はお座敷に向かう舞妓を撮ろうと、アマチュアカメラマンや修学旅行生がうろちょろ。「枕の下を水の流るる」とうたわれた紅灯の巷に水商売が軒をつらね、酔った客がとぐろを巻くのもみな龍神のえにしか。それで世の憂さを流すならこれぞ牛頭天王のご利益というもの。祇園のまちは毎日がお祭りである。 |
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