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10 岸和田
文:鶴田純也(放送作家)
1995年10月号掲載
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大阪から関西国際空港へ向かう湾岸道路を走っていると、左手に小さく城が見えてくる。岸和田城だ。
現在の三層の天守閣は戦後復興されたもので、文政年間(一八一八〜三〇)に落雷によって焼失するまでは五層であったとか。石垣や堀の規模から見ても相当に立派な城であったことがしのばれる。
岸和田の城下は農村と漁村、商業地区に分かれていた。地元の人は今もムラ、ハマ、マチとそれぞれを呼びならわしている。旧紀州街道沿いのマチには今も古い商家の面影を残す家並みがあり、城下町らしい風情がある。
いちばんの繁華街は南海本線・岸和田の駅前商店街で、アーケードにおおわれ、明るく現代的だが、どことなくのんびりした印象だ。しかし、こののどかな町も九月十四日、十五日のだんじり祭の日には隅々まで興奮に煮え立つようになる。
元禄年間(一六八八〜一七〇四)に藩主が城内に伏見稲荷を勧請し、その祭礼に町人の参詣を許したところ、太鼓を乗せた台車を曳いて城の門をくぐったのが各町のだんじりの始まりで、きびしい制約のある中であれこれと工夫するうちに徐々に豪華になって、今では欅の材に精緻な彫刻をほどこした工芸的な価値の高いものになっている。 |
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だんじりが立派になるにしたがって、神事よりも芸能としての曳き廻しが祭の中心となったのだろう。祇園祭の山や鉾は神の依代であり、さればこそしずしずと町を練るのだが、岸和田のだんじりは各町の住人の心意気の依代みたいなものだから、心を一つにして危険を乗り切るところにエクスタシーがある。それで、十字路を直角に曲がるとか、S字カーブを通過するときにわざわざ疾走するのである。
岸和田っ子のだんじりに寄せる情熱は、到底よそ者に理解できるものではない。どんな祭でもその土地の人は特別な愛着を持っているものだ。その季節になって祭囃子が聞こえると、じっとしていられなくなるお祭野郎が必ずいる。しかし、岸和田っ子のはそんな呑気なものじゃない。情熱とか愛着というよりも衝動に近い。岸和田に住む私の友人などは、祭の大変さを思うと、どこかよその土地に逃げ出したくなることがあるそうだ。けれども、同時に、胸が熱くなり血が騒ぐのをどうすることもできない。それはこの土地に生まれた業のようなものであり、まったく異常だと、ほとんどの者が自覚しているという。 |
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近ごろ全国ネットのテレビ番組にも取り上げられて、だんじりはいよいよ有名になった。誇らしい気持ちがないではないが、彼らはそれほどうれしくはないらしい。なぜなら、この祭は誰に見せるためでもなく、自分たちのために行うのだから。ただでさえ危険な祭なのに、観光客がおおぜい来ては邪魔になるのである。曳く者に死ぬ覚悟はあるが、見物人にはそれがないから困る。ましてや、見物人のためのトイレが少ないなんて知ったこっちゃない。
最近になって城のすぐそばに「だんじり会館」ができた。マルチ・スクリーンに勇壮な曳き廻しが映し出され、本物のだんじりに提灯がともって祭の夜が再現されるなど、よそ者には見応えのある、よく出来た施設である。何より安全だ。けれども、この会館についても、地元の人の中には「あんな物造る必要ない」と、ぶつぶつ文句を言うのがいるそうだ。祭はあくまで自分たちのもの。再現などしなくても、上の瞼と下の瞼をぴたりと閉じりゃ、俺にゃだんじりが見えるんでぇ……ということなのだろう。
ところが、実際に足を運んでみると、だんじりに乗って太鼓や鉦をたたいているのは地元の小学生で、さすがにうまいものだ。みやげ物を売るおばさんの話によれば、毎日やってくる大人もいるとかで、入場者の多くは地元の人らしい。文句を言ってる人も、毎日来る人も、岸和田っ子って何だか可愛いなあ。 |
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