5 藤原京

文:鶴田純也(放送作家) 
1995年5月号掲載


 近鉄・八木駅からタクシーに乗り、藤原京の跡へと向かう。
 「この辺でいいですか」
 と降ろされたのは、なあ〜んにもない田んぼのまんなかだった。
 考えてみれば、跡なのだから何もなくて当然である。それに何もないと言っても、見廻せば大和三山、とりよろう天の香具山の女性的な姿が美しい。女性は多くの人の目に晒されるときれいになるというが、自然も古代からたくさんの人目に触れ、歌人に讃えられチヤホヤされていると、その気になるものなのかも知れない。田んぼだって、七一〇年に都が平城京に移って以来、耕されつづけてきた、いわば人の手入れの行き届いた歴史のある自然である。
 この場所に、一三〇〇年の昔、律令国家にふさわしい、わが国で初めての大陸式の都が造られた。あたらしい政治組織のもとで元号が制度化され貨幣が発行され、公設市場に物資が集まった。そんなことを思いめぐらせていると、今立っている地の底から人々のざわめきが立ちのぼってくるような気がする。
 安手のモニュメントを作り、観光みやげを売る店が軒をつらねるより、この何もない史跡の方がどれほど多くの夢を語りかけてくることか。広い広い田畑の中を横切る小学生の群れの赤いランドセルや黄色い帽子の色が目にしみる。
 日本史の上でとりわけ大きな意味を持ちながら、藤原京の宮殿のあった場所は長いあいだ謎だった。江戸時代以来の論争に一つの結論がもたらされたのは、一九三四年に発掘が始まってからのことだという。その調査で明らかになった大極殿の跡は、小島のようにそこだけ雑木を茂らせていた。近づいてみると、一本の木の枝に凧がからまって逆さになっている。
 それを見て、急に蘇った記憶がある。私の母の小学校以来の友人にTさんという婦人がいた。私より一つ年下の一人息子がいて兄弟のように遊んだ。その家に行くと、床の間に瓦が飾ってある。お寺の軒に葺いてあるような瓦で、子供の目にも古色のついた立派な瓦だということは分かったが、屋根の上にあるべきものが床の間に、それも紫の布団の上に鎮座しているのが不思議だった。そのことを母に問うと、Tさんのご主人は婿養子で実家は大和にあり、
 「あの辺は歴史のあるとこやから、昔は田んぼを耕してると、ちょくちょくあんな物が出て来たらしい。見る人が見たら値打ちがあるねんやろ」
ということだった。
 その大和の親戚にも私は連れられて行ったことがある。溜池で魚を獲ったり、山にのぼったり納屋の大八車をひき出して荷台に乗ったまま川に落ちたり。ゴミゴミした大阪の下町育ちの私にはまるで別天地で、腕白の限りを尽くしたが、誰も私を叱らない。
 「大事なヨソの子をあずかってるのに怪我でもさせたらどうする」
と、Tさんの子供だけが叱られるのが愉快だった。
 料理自慢の叔父さんが包丁を握っていろいろなごちそうを作ってくれた。庭で遊んでいるのをしめたという鶏のすき焼のおいしかったこと。
 あの日、凧を揚げたかどうかは憶えてないが、のぼった山は確かに香具山だった。すると、家はあの辺りか。
 蕪村の句に「凧きのふの空のありどころ」というのがあるが、中ぶらりんの凧が、三十数年前の記憶を発掘する鍬となったのである。
 帰りの道で何台かの大きなトラックとすれちがったのは、創都一三〇〇年を記念してこの春に開かれるロマンピア藤原京の工事の関係らしい。イベントが終わったら、また元の何もない田園に戻るのだろうか。その史跡も、ぜひ多くの人に見ていただきたいものである。