6 出石

文:鶴田純也(放送作家)
1995年6月号掲載


 私が「出石に行って来る」と言うと、異口同音に返って来るのは「そばを食べに?」という言葉である。今、?をつけたが、実際にはもっと断定的な言い方だ。関西では、それほど出石の皿そばは有名なのである。
 しかし、そばを食べるためだけに出かけるには出石はいささか遠い。兵庫県の北部にあるこの町は、大阪からだと往復するのに五時間くらいかかる。たいていの人はもう少し先の城崎温泉や久美浜の海水浴場への行き帰りに、ちょいとそばでもたぐるつもりでバスやクルマで立ち寄るのだ。実際、日本海の宿のカニや魚づくしの料理に飽きた口に、冷たいそばをすすりこむのは心地よいものだ。ついでに立ち寄ったにしては上出来のうまさだし、町のたたずまいもそばの味に似て素朴であると同時に、品がよい。どこかなつかしい気分になる。また来ようと思う。来ようと思うが、やはり少し遠過ぎる。
 まあ、たいていの大阪人にとって出石はこのような町なのではないかと思う。
 しかし、一度訪れてみると出石はなかなか忘れがたい町であることは確かだ。古い城下町だが、城山にあるのは復興された隅櫓だけ。その城に出勤する時刻を太鼓を打ち鳴らして知らせたという辰鼓櫓は、古ぼけた火の見櫓のようなものに過ぎない。見るべきものの少ない町だ。どこにでもありそうな町屋、どこにでもありそうな土壁、道、寺の屋根……。ところが、このどこにでもありそうなものが、現実にはわれわれの周囲からどんどん姿を消していっている。見慣れたはずの、失われたものが、ここにある。
 人口一二〇〇人の町に四三軒のそば屋があるという。他府県からの客を迎えるために駐車場を設けている店が多い。当然、町には屋号を書いた看板が数多く目につく。他より目立とうとすれば看板は派手になり、競い合ううちにえげつない色や文句が町にあふれるはずだ(大阪の街を見よ!)。しかし、この町の、特に中心の旧城下町にそうした看板は少ない。ひっそりとした路地の、何気ないのれんをくぐると、中は家族連れの客で大にぎわいだったりする。
 城山にのぼって、そんな町を見下ろしていると、なんだかホッとする。実際の出身地とは別に、人は心の中に理想のふるさと像を持っているものだ。出石は最小の面積でその諸条件を満たしてくれる町なのではなかろうか。山があり川があり、城跡があり、造り酒屋がある。寺が多い。名物の焼物の皿に盛った、うまいそばがある。そして半日もあれば、そのほとんどを見て廻ることができる。
 どこかに似た町があったなあと考えて、思い当たったのは、同じ兵庫県の播州龍野である。出石の城主・小出氏はたしか龍野からやって来たはずだ。小出氏は大阪の岸和田の城主にもなったことがある。いずれも城下町の面影を今も濃く残すところだ。
 その小出氏が来る前の出石は、領主・山名氏が豊臣秀吉に逐われている。山名氏の家来の子として出石に生まれたのが、のちの沢庵和尚だ。沢庵は幼い時に宗鏡寺という寺にあずけられた。戦乱のあと荒れ果てていたこの寺を、彼は小出氏に勧めて再建し、のちに後の山に投淵軒という庵を結んだ。
 何事にもとらわれない悟りの世界を求めながら、彼の一生は秀吉や徳川将軍家といった権力者によって翻弄されつづけた。幕府の命に背いて京都から東北に流されたのに、赦されたとたんに将軍に気に入られ、断り切れずに関東に住した。しかし、その間も、絶えず心はふるさとの投淵軒にあったらしく、たびたび帰郷している。草庵での暮らしぶりはつましい限りだったらしい。
 沢庵がそこで考案したのが沢庵漬だったといわれる。私も土産に一本買って帰ったが、近ごろの甘ったるい、やわなのとちがって、きっぱりと塩の利いた歯応えのあるタクワンだった。そばとタクワン、どちらもこの町にふさわしい名物といえるだろう。