スタッフのお勧めスポット:吉野町    
さくらの名所と修験道の聖地   by A.Kawabata
さくらの国の桜の名所
 日本人は桜が大好きです。その証拠に花見といえば、チューリップやひまわりを連想しません。桜を見ることを花見といいます。日本人は花と言えば桜をイメージするのです。
 その桜の名所として吉野は古来より全国に知れ渡っています。吉野の桜の由来は、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)が、修行によって日本独自の仏である金剛蔵王権現を祈りだした時、その姿をヤマザクラの木に刻み、お祀りしたことに始まるといわれています。
 以来、花見のためにではなく、蔵王権現や役行者に対する信仰の証として、信者たちによって献木として植え続けられ、現在の花の吉野ができたといわれています。
 そのような日本一の桜の名所といわれる吉野では、春になればおよそ3万本もの桜の花が下千本・中千本・上千本・奥千本へと、約1ヶ月をかけて豪華絢爛に咲き乱れます。その優雅で気品のある桜は、古くは古今和歌集にも読まれ、現代に至るまで多くの文人墨客の心を惹きつけてきました。
 そして花の季節が終わると、萌えいづる美しい若葉が全山を覆い、多くのハイキングを楽しむ人々が行き交います。さらに緑が濃くなりはじめると、吉野川では鮎釣りが解禁となり、涼を求める人とともに多くの人で賑わいます。また龍門岳の影を映す津風呂湖では、ボート遊びやハイキング、魚釣りなどを満喫することが出来ます。
 やがて秋になると吉野の山々は紅葉の時期を迎え、桜やかえで、もみじが山々を彩ります。静かな吉野の秋は、古寺史跡や文学の足跡を巡るのに最適な季節と言えます。
 また、枯淡の世界となる冬景色も格別で、雪降る吉野の山中で別れた源義経と静御前の悲恋に思いをはせるのも一興ではないでしょうか。
 吉野の花見といえば、豊太閤秀吉の花見が有名です。秀吉が絶頂の勢力を誇った文禄3年(1594年)、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将や茶人、連歌師たち総勢5,000人の供ぞろえで吉野山を訪れました。しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3日間雨が降り続き、怒った秀吉は同行していた聖護院の僧道澄に、「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する。」と伝えると、道澄はあわてて吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。その甲斐あって、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華絢爛な花見が催され、さすがの秀吉も吉野山の神仏の効験に感じ入ったと伝えられています。
 このような1300年の歴史をもつ吉野山のサクラの一部が、樹勢の衰えや立ち枯れ被害などで危機に陥っています。奈良県や吉野町、地元団体などが、「吉野山のサクラ」の保護、育成を図り、サクラの現状を多くの人に知っていただき、世界遺産に登録されている自然景観を残すことを目的として「吉野の桜を守る会」が設立されました。チャリティーコンサートや募金活動、「吉野サクラ応援団」の結成など、様々な活動に取り組まれています。
修験の聖地
 修験道とは、山に籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする日本古来の山岳信仰が、仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教です。
 森羅万象に命や神霊が宿るとする古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)という山岳信仰と仏教が習合し、さらには道教、陰陽道などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教です。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって、超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもあります。この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼びます。
 修験道は奈良時代に成立したとされ、役小角(役行者)を開祖と仰いでいます。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に則って在家主義を貫いているのが特徴です。
 平安時代ごろから盛んに信仰されるようになりました。平安初期に伝来した密教との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立します。密教との関係が強かったことから、独立した宗教ではなく仏教の一派ともいわれています。
 江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないと決めました。
 その後、明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年には修験禁止令が出され、修験道は禁止されます。また廃仏毀釈により、関係する建物などが破壊されました。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもあります。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など、神仏習合時代の名残も見られます。
 修験道の法流は、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されます。当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺の増誉が聖護院を建立して熊野三所権現を祀ってから一派として形成されました。真言宗や天台宗は皇族・貴族との結びつきが強いのですが、修験道においては一般民衆との関わりを持っていた点で、修験者(山伏)の役割は重要でした。
 現代では、奈良県吉野山の金峯山寺(金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院(本山修験宗)、同伏見区の醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われています。また、日光修験や羽黒修験のように各地の霊山を拠点とする国峰修験の流れもあります。
 大和盆地に都が置かれた太古の昔より、吉野は神さぶる地とされていました。なかでも吉野水分峯(よしのみくまりのみね=青根ヶ峰)は、四方に川の源を発することから神奈備山として崇められていました。古代の多くの天皇が吉野に行幸されたのは、この山に祈りを捧げるためだったのではないかともいわれています。
 修験道は平安時代に入り組織化されたと考えられていますが、白鳳時代の人、役行者(役小角)を開祖としています。役行者が、金峯山上(山上ヶ岳)で厳しい修行の後、本尊蔵王権現を感じ取り、その姿をヤマザクラの木で刻みお祀りしたことが始まりとされています。
 金峯山上は老人や女子供が参詣するには厳しすぎるために、その山下にあたる吉野山に同様にお祀りしたのが、現在の金峯山寺蔵王堂といわれています。平安時代には隆盛を極め、宇多上皇や白河法皇などの皇族方や藤原道長や頼通などの貴族が競うように金峯山詣でを行います。そして、多くの荘園や田畑が寄進され、吉野は大きな勢力を持ち、最盛時には山上と山下の蔵王堂を中心に百数十の塔頭寺院が甍を並べていたといわれています。
 後醍醐天皇をはじめ南朝方の経営は、このような勢力を頼みとされていたのです。南朝に尽くすことで吉野の勢力は一時まったく衰微するのですが、近世に入り、大坂・堺を中心とする一般庶民の山上詣りが盛んとなり、あらためて吉野は修験の聖地として賑わいを見せていたのです。
 ところが、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈の運動は、神仏習合を旨とする修験道を根本的に打ち壊してしまいました。全国にあった修験の霊場と同様に、吉野の修験寺院はことごとく廃寺に追い込まれ、金峯山寺の山上・山下の両蔵王堂も金峯神社の奥の宮・口の宮とされてしまいました。
 これにより修験道は消え失せたかのように見えましたが、信仰の強さと根強い嘆願運動が実を結び、明治19年に両蔵王堂は仏寺に復帰することが出来ました。しかし、往年の姿を取り戻すにはほど遠く、山上と山下の蔵王堂も別々の寺とされてしまいました。とはいえ、現在でも夏ともなれば、梵天鈴掛の山伏姿や白装束の信徒の皆さんで賑わいを見せる、修験の聖地吉野にかわりはありません。
金峯山寺 蔵王堂 花供会式 : 毎年4月11日・12日
 蔵王権現の御神木である桜の満開をご報告供養する行事で、大名行列などで賑わいます。
 
吉野神宮 春の大祭 : 毎年4月第3日曜日
 吉野山の桜は、下千本〜中千本〜上千本〜奥千本へと、4月上旬〜下旬にかけて、順次咲いてゆきます。
                        
  交通:近鉄吉野線 吉野駅下車 徒歩またはロープウエー

  問合せ先:吉野山観光協会
         所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山2430
         電話番号:0746−32−1007
         ホームページ:http://www.yoshinoyama-sakura.jp/top.htm

         吉野町役場 観光商工課
         所在地:奈良県吉野郡吉野町大字上市80−1
         電話番号:0746−32−3081
         ホームページ:http://www.town.yoshino.nara.jp/
一部吉野町ホームページを参照しています。
(by A.kawabata)