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和歌山城 50年後を考えさせる天守閣 96年12月号 和歌山県和歌山市 |
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緑が濃い。 紅葉の色も深い。 「森の都」といえば仙台や熊本だろうが、この紀州の首府も、それに価するのではないか。 試みにJR和歌山駅から、けやき大通りを通り、和歌山城へ向かう。 大きな梢が回廊のように頭上を覆い、その下を伝うと、いつのまにか鬱蒼とした森に入る。そこが城である。 城は御三家の風格に満ちている。紀州徳川家の拠点。あたりを睥睨する権威の象徴だから、当然ではある。 その反面、城内に風雅の感も漂っている。藩主の隠居所とされた西の丸などに自然を取り入れようと努めたことによるのだろう。紅葉渓庭園のたたずまいなど、にわかづくりの公園では、かないっこない。 |
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| 天守閣は弘化三年(一八四六)の落雷と、百年後の昭和二十年(一九四五)の空襲という二度の災厄にあった。いまあるのは、昭和三十三年に復元された鉄筋コンクリート造りである。 最上階に上がる。 和歌山平野が両腕に抱えられそうに、望める。南東は巨大な高野の山々。北は眼下に紀の川が横たわり、西の海へ流れこんでいる。 「あの向こうに四国がみえるんです。せっかくいらしたのに天気が悪くて」と女性の数人連れが残念がっている。和歌山の郊外に住む一団で、高校の同窓会の帰りだという。悪びれない、という褒め言葉があるとすれば、ぴったりであろう。堂々としている。 これは和歌山の一般的な気質かもしれない。和歌山駅の窓口の人も、タクシーの運転手さんも、親切がべったりと甘くならず、無骨なさわやかさがある。 和歌山市だけでなく、和歌山県に間口をひろげて人物をあげると、儒学者・藤原惺窩、国学者・本居宣長、外科医・華岡青洲、博物学者・南方熊楠、数学者・岡潔、作家・佐藤春夫、有吉佐和子、画家・川端龍子、オリンピック棒高跳び・西田修平、前畑ガンバレの兵藤秀子、プロ野球・西本幸雄−どこか共通する。 江戸期、参勤交代の行列は、伊勢街道まわりと、上方街道まわりの二つがあった。 伊勢まわりは、西へ紀伊半島を横断して、松坂に至り、船で伊勢湾を渡って東海道に入る。上方まわりは、北へ大阪、京都を経て、やはり東海道へ入る。 いずれも、山越えのわずらわしさがある。歴代の藩主は――近ごろ吉宗の名がよく知られているが――山に囲まれた鬱屈さと、海に開けた爽快さの両面を味わっていたにちがいない。 |
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| 御三家の和歌山は平穏な毎日と豊かな文化を約束された。その分、幕末・維新の風雲には立ち遅れた。長州征伐も鳥羽伏見の戦いも、終始、幕府を支える側に回った。当然であった。あきたらず、脱藩して局面の打開を図った人が出たのも和歌山らしい気質である。 おもしろいことに、和歌山の人々は、例のペリー来航(一八五三)より六十年以上も前に、黒船体験をしている。 寛政三年(一七九一)三月である。 紀伊半島の南端、樫野崎に黒船が現れた。地元の人と接し、品物を交換しようとした。知らせで藩士がかけつけたが、すでに姿を消していた。時化で避難したアメリカ船だった。 黒船に限らず、海に開いた土地は、外からの文物と真っ先に接してしまう。古代、中世を通じ、和歌山は大陸や南海からの入り口だった。 いきなり現代になるが、第二次大戦の末期、西日本へ飛来する米軍機は、紀州上空を分岐点として針路を決めたそうである。戦後、近畿を抑える米軍は紀州に上陸して、大阪へ向かった。 天守閣に上がって、人間と環境の関係を考えさせられる。不思議な城である。 いま、和歌山は関西国際空港に最も近い都市の一つである。紀伊半島のJR線整備も著しい。和歌山は変わる。 五十年後、この天守閣で、どういう話がかわされているのか。かなわぬことながら、聞いてみたい。 |
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