歴史街道ロマン紀行

天理・石上神宮 分厚い時間の積み重なり

99年1月号 奈良県天理市


 やはり、ここは宗教都市である――としか言いようがない。
 道がまっすぐ通っている。
 チリひとつ落ちていない。
 巨大な銀杏の並木が延びている。
 俗っぽい看板がない。
 なにもかも、清浄である。
 ゆきかう人々の礼儀正しさ。会釈をかわしあっている。見知らぬ旅人であるわたしと目があっても、ほほえみが返ってくる。ほとんどの人が天理教の法被を着ている。
 そうそう。この天理教本部のそばの大きな通りを東へ抜けると、小高い山に突き当たるはずである。山麓に細い山道が通っている。奈良の都へ南北に通じていた古代の幹道「山の辺の道」の跡だ。そこをたどっていけば古さびた社がある。それが石上神宮であったはずだ。
 そろそろたどりつくかな、と思うまもなく、自動車のひっきりなしに走る道に出た。バスも乗用車もかなりのスピードで走る。これはまったく記憶にない。それもそのはず、あとでわかったことだが、これは名阪国道へ通じる道である。
 目的地の小高い山は、自動車の走る道の向こう側にある。用心しながら横断する。山沿いの歩道に入る。
 歩道の右手は、自動車の走る道。
 左手は樹木の鬱蒼と茂る山である。
 とつぜん、若い男たちの活気に満ちた声がした。と、目の前にトレーニング服姿の若者が数人、駆けおりてきた。
 そこが、石上神宮の参道であった。
 参道の入口が二百bほど、奥に向かってなだらかな上り坂になっている。その坂を男たちは駆けおりてきた。おりきるとすぐまた上ってゆく。みな汗びっしょりである。まだまだ走れるという顔も、体力を使い果たしたという表情もある。四十〜五十人はいる。高校生だろう、監督の先生らしき人が、これもトレーニング服で坂の下に立ち、生徒たちの動きが参詣の人の邪魔にならないように目配りしている。
 こんなに人里近くだったのか。いま、生命のほとばしりでるような若者たちの汗と掛け声は、石上神宮のイメージと重なり合わない。記憶と現実があまりにちがう。
 ところが、参道を上るにつれ、若者たちの声はすぐ消えてしまった。まわりの樹木が音を吸収するようである。
 みまわすと、深い樹林も足元の地面もたっぷりと湿気を吸い込んでいる。樹間にのぞく空は青く冷たく澄み切っているのに、歩くわたしの周囲はじっとりと湿気ている。いつのまにか荘厳といってもいい雰囲気が満ちてきた。現代の車道や人家がこんなにも近いのだが、太古の森の鎮まりが、その生々しさを遮断してくれるのだろうか。神韻縹渺という言葉を久々に思い出させてくれる。
 鳥居が現れた。くぐると朱塗りの楼門に拝殿。奥に、舞を舞う人影がある。
 きけば、夕刻に薪能が行われる。それを前に、祭神に奉納する神歌がとり行われているところである。
 楼門の外へ出て、裏の山道をゆく。すぐ行き止まりになって、これ以上は立ち入りを禁じる札がある。
 ただ、その横道の向こうから、一団の人々が歩いてくる。年配のグループで、どこか東京ふうの言葉である。
――どちらから。「横浜からですよ」
――いつお見えに。「昨日、奈良に着きまして、今日は山の辺の道を歩いていますの」。
リーダーらしい人が静かな声で、まわりの風物の解説を始めた。
 なんのことはない。いま、わたしは、山の辺の道そのものを歩いていたことになる。この古道は石上神宮の中を通り抜けて、新しい車道や山道や東海自然歩道などともつれあいながら南北へ通っている。南へゆけば竹之内環濠集落跡から念仏寺、長岳寺、三輪山の大神神社、桜井へ。北へゆけば奈良の街、興福寺あたりである。
 この、石上神宮の祭神は諸説あるが、『日本書紀』などによれば、神武天皇東征のさいに力となった布留御魂剣などである。奥にあった禁足の地には、その地下に、ご神体が納められていたのだという。史書をひもとけば神話や伝説に彩られた神宮である。古代の武器庫であったともいわれ、武を司る物部氏が一帯を治め、多くの社寺が甍を並べていた。 いま、参道を通る人々が、思わずあたりを見回したくなるほどの厳かな雰囲気も、その、過ごしてきた時間の分厚い力によるものであろう。
 境内に戻ると、品のいい鶏が群れをつくって歩いている。鳥居の外に出た。参道を上り下りする若者のトレーニングは終わったらしい。
 日が沈んで、奥では薪能が始まったようである。楽の音がきこえてくる。篝火の光は、森にさえぎられて外まではとどかない。このぶんなら目の前の道を走る自動車のヘッドライトも、能舞台にはとどいていないだろう。