歴史街道ロマン紀行
兵庫県・篠山 豊かな、穏やかな

98年6月号 兵庫県篠山市


 安らぎ、というのは、このことか。
 丹波の篠山ささやま町(兵庫県多紀郡)を歩くと、一歩ごとに、穏やかな気分にひたりこんでゆく自分を感じる。
 歩く道はまっすぐである。曲折して敵を迎え撃つ、あの城下町の気難しさはない。町の真ん中にある方形の道と方形の町が広がる。碁盤の目のように。
 篠山生まれの知人を、何人か思い出している。共通することは――。
 穏やかでクセがない。
 目先のことにアクセクしない。
 広い教養がある。
 あの気質は篠山の風土からきていたのか。
 篠山は丹波山中にある寒村だった。近世、徳川家康の命により、壮麗な城と整然とした城下町が生まれた。以前を知る人は、蜃気楼にでも出会ったようにおどろいたろう。篠山は、砂漠に生まれたラスベガスのような人工の町だ。
 ただ、篠山は歓楽街ではない。政治目的があった。関ヶ原以後、家康は、大坂城を囲むようにして盛んに城を築いた。篠山城はその一つである。慶長十四年(一六〇九)に築城され、姫路・明石・尼崎の城とともに、大坂と西国を鎮める役を担った。
 篠山は学問を重んじる藩風だった。江戸中期、伊藤仁斎の門人・松崎蘭谷らが出た。藩校の振徳堂には若者が集い、篠山版とよばれる独特の版木による図書も出版された。
 藩主は、松平家や青山家など変遷したが、代々、幕閣で重んじられた。
 篠山に入る前の青山家の第五代当主・青山忠俊は、酒井忠世、土井利勝とともに家光の輔導役となり、「寛永の三輔」と称された。「土井の智、酒井の仁、青山の勇」で将軍家を守る、とされた。だが青山は厳しすぎた。流行の衣服を着た家光のエリをつかんで引き倒し、鏡を投げ捨てて諫めた。当然、遠ざけられ、のち反省した家光の呼び出しを受けたが、応じなかった。
 青山家の第十三代当主で、第十二代篠山城主の青山忠裕は老中を務め、同役の松平定信と寛政の改革を行った。
 温情家で「老中加判の役」を嫌った。死刑執行の最後の判を押す役である。わざと判を袋から出しにくくして時間をかせいだ。仕事終わりの大太鼓が鳴ると、じゃ明日、と下城し担当役人を困らせた。
 いずれも、篠山気質を投影できる話かもしれない。一方、田畑は豊かだったが、年貢の取り立てがきつかった。農民は困窮した。伏見や池田、伊丹、灘五郷など酒どころへ酒造出稼ぎに出た。
 藩は出稼ぎを禁じ、耐えかねた人々が立ち上がって一揆に発展した。犠牲者も出た。そういう時代をしのいで、丹波杜氏の伝統が生まれた。
 明治維新で藩は廃されたが、明治四十年、歩兵第七〇連隊が設置され、篠山は蘇った。敗戦による軍の解体は再度の試練だったが、篠山は、いま田園文化都市をめざして活気を取り戻している。
“JR篠山口駅でバスに乗り、二階町停留所で降りなさい。まず『大正ロマン館』を訪ねることだ ”と言われた。
 大正ロマン館は、大正十一年建築の、もと篠山町役場だ。瀟洒なたたずまいに、この町のおしゃれな気分がうかがえる。観光案内所と特産品売り場、レストランなどがある。案内所の若い男女は「さあ何でも聞いてください」という意気込んだ顔。パンフレット類も目の前にどんどん積みあげる。町を知ってもらうことが嬉しくてならない様子だ。
 そこを起点に、東側のデカンショ通り、尊宝寺。南の、たんぼ田園交響ホール、篠山城跡。西へ回ってお徒士町武家屋敷群など。東へ回って能楽資料館や河原町妻入商家群。
 歩くうちに、旅行者だけでなく地元の人もいるのに気づいた。青山歴史村では、「この長持ち、姉さんの嫁入りのときのんと似てるな」とか、丹波杜氏酒造記念館では、「あの大きな桶なあ、小さいころ、中に入って遊んだことあるわ」とか。
 丹波言葉を耳にしながら、歴史の古さと、それを誇りにする人の情を思う。
 通りに、いくつか人だかりができていた。地酒、和菓子、アクセサリーなどの店々である。ソフトクリームを手に篠山歴史美術館のベンチで一休みというのが、若い人々の流行になっているようだ。歴史の古い町は、避けられない泥臭さをもっているものだが、この、町はむしろスマートである。
 なんだろう、これは。
 かつて日本のどの町にもあった、健康な明るさ。それがここにはある。歩きつかれたころ、嬉しさがこみあげてきた。