歴史街道ロマン紀行
潮の遠鳴り求める近代都市 堺

94年12月号 大阪府堺市


 「堺ほど全国に知られた地名は少ないですよ」と元堺市博物館館長・岡本良一さんに聞いたことがある。「それは室町期の黄金時代の余光ですがね。そういうものを大事にしながら現代の堺も人の記憶に残る街にしたいですね」と。
 岡本さんは大阪城天守閣主任も務められ大きな業績を残された。すでに故人であられる。 というわけで、現代の堺を歩くことにした。
 JR天王寺駅から阪和線で南下し、堺市駅で降りてみる。
 古来、堺は「五街道」の交錯する所であった。長尾街道、竹内街道、西高野街道、熊野街道、紀州街道。いずれもかつての日本の幹線道路である。堺市駅で降りたのは五街道すべてを歩こうという、もくろみからである。
 いま、駅から西へむかう道はもう「長尾街道」である。古代、瀬戸内や大陸からの物産は堺に陸揚げされ、この道を通り奈良の都に運ばれた。また明治の初め、和泉・河内・大和の広大な地域が堺県とされたころ、堺県庁と奈良市庁を結ぶ行政ルートでもあった。
 長安からの宝物も韃靼人も、明治の役人も通ったと思えば、変哲もない道が光彩を帯びてくる。
 二十分ほどで堺東の繁華街。これで長尾街道を一キロ余り歩いたことになる。
 目の前に堺市役所。二十一階の展望ロビーからの眺望はすばらしい。六甲も淡路島も一望。仁徳陵はすぐ近くに広がっている。
 市役所を出て東へ、踏切を渡ると竹内街道になる。厳密には西高野街道と重なっており、この両街道は榎元町四丁でわかれる。古びた道しるべがある、と聞いたが、三差路には真新しい標示が立っていた。「古いものは大事に保存されてます」と聞いてほっとする。近くの祠の苔むした石碑に、「安政四年」と刻まれていた。
 「竹内街道」は堺と奈良、飛鳥を結ぶ古代の重要道路。「西高野街道」は京都の貴族や庶民が高野山詣でに通った道である。
 これで三街道を歩いた。
 右手の西高野街道に道をとるとJR三国ヶ丘駅がある。ひと駅南の百舌鳥駅まで電車に乗る。駅から西へゆくと緑の木立がみえる。仁徳陵と大仙公園がある。公園内に堺市博物館がある。
 さらに西へ。高速道路下に堀割がみえてきた。
 室町期の堺は防衛のため環濠をめぐらした。宣教師ビレラが「堺の街は堀に囲まれ、海水が還流してベニスのようである」とたたえた。堀割はその環濠跡である。
 堀に近づいた。ビレラ師ならなんというであろう。現代のわれわれは、市街地によくこれだけ残してくれた、と感嘆する。堺市は、海水導入による、内川水辺空間の整備計画をたてている。いつの日かベニスの美しさを取り戻したい。
 堀にかかる橋に「熊野街道」の標示。ここは京から熊野詣でにゆく道であった。これで四街道。
 堀の先に路面電車の通る大道筋がある。紀州と大阪を結んだ「紀州街道」である。紀州徳川家もここを通って江戸へむかった。
 五街道、ついに踏破。
 ここまでくれば与謝野晶子の生誕地もみたい。路面電車で北へ二駅。線路わきに歌碑がある。
 「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」
 胸が痛む。明治十一年生まれの晶子は潮鳴りを聞いている。
 おもえば堺の栄華は、まず信長の自治都市つぶしに出遭い、秀吉の堀埋め立て令に挫折した。江戸期には淀川の洪水防止のため、大和川のつけかえが行われた。その吐き出す土砂が堺の海を埋めた。それに大空襲、急激な都市化。
 もう潮鳴りは聞こえない。
 「でも歴史の分厚い町はかならず蘇るんです。それが歴史の力なんですよ」岡本さんの言葉は、はっきり聞こえてくる。