歴史街道ロマン紀行

奈良・正倉院 千二百十数年を耐え抜いた宝物

99年10月号 奈良県奈良市


 正倉院はもともとは倉庫であった。奈良の大仏さんのおわします東大寺に献じられた宝物を収めてある。
 ただし、宝物はあまりにも貴重な品々であり、勅封とされた。だから、内部をうかがうことはできない。歴史の流れの中で、時の権力者が入った形跡はある。また、研究者や内外の貴賓には、内部参観も許されていたことがあるらしい。
 そのていどの知識で、正倉院を訪ねたことがある。数十年前の、秋の炒り陽のさす、暑い午後だった。
 倉庫というからには、大仏殿の背後にあるはずだと見当をつけ、東大寺の門から外塀に添って左に回った。意外に視野が広がり、芝生や木立に覆われた低い丘陵が生駒山の裾まで重なりあって、続いていた。
 小さな池があり、鹿がたたずみ、その奥が正倉院の入口だった。
 外側から建物だけ見学できる、ときいて「少し、内部も見学させていただくわけには」と言ったが、内部の拝観はできない、といわれた。
 門を入って校倉造りの倉下にたどりつくと、もう暑さに疲れ果てて高床下に座り込んだのを覚えている。警備の人には怪しげな男に思われたにちがいない。
 しかし、その厳重な警護により、正倉院の宝物はシルクロードのカプセル、世界史の奇跡といわれるほど、完璧に保存されてきた。その結果、平成十年十二月に東大寺の建造物とともに、世界文化遺産に登録された。
 正倉院はいつ成立したか。その正確な文書はないが、一定の時期に存在したことを示す文書はいくつかある。最初のものが、天平勝宝八年(七五六)に奉献された国家珍宝帳である。光明皇后が聖武天皇の七七忌に、天皇の遺愛の品と薬物を、大仏に献じたと書いてある。その他の宝物の中には、それ以前の年号を記したものもある。世界最古の戸籍といわれる大宝二年(七〇二)の戸籍書類は、その最古の例である。
 千二百数十年の間、正倉院も安泰であったわけではない。宝物の中には貸し出しされたり、流出したりして戻ってこなかったものもある。さらには、正倉院そのものが危うかったこともある。
 たとえば、治承四年(一一八〇)の平重衡の「奈良焼打ち」である。平家の全盛がややかげりをみせ、諸国で源氏が蜂起し始めていた。平清盛は奈良の衆徒を抑えようと使者を送ったが、この使者六十余人が斬られ猿沢池にさらされた。怒った清盛は重衡に四万の軍勢を与え、奈良を襲わせた。重衡は民家に火をかけ、その明かりで軍を進めた。火は風にあおられ、なんと大仏殿や講堂まで焼け落ちた。正倉院も火にのみこまれそうになったが、このとき風が変わったとも、懸命の防火作業が功を奏したともいわれる。
 永禄十年(一五六七)には、奈良の寺院に立てこもった三好三人衆と松永久秀の争いで、またまた大仏殿が焼失した。このときも風向きが変わって正倉院は助かった。
 つぎに、第二次世界大戦である。日本の主要都市は米軍の空襲で壊滅した。京都や奈良が残ったのは、米国には日本文化に詳しい学者がいて、その保存運動による、とされた。
 その名をラングドン・ウォーナー博士といい、ハーバード大学教授である。
 博士は戦前来日し、岡倉天心とも交流がある。戦争が始まると、日本の重要な文化財の所在地を記入したリストを米軍に提供し、保護を望んだ。ただし、戦後来日して“日本文化の恩人”と言われているのを知った博士は「私にそういう力はない」と、そのことを否定した。
 このため、これは“伝説”にすぎないとする向きもある。しかし、たとえ偶然であったとしても、治承・永禄の風の変化といい、昭和のウォーナー博士といい、正倉院を中心とする奈良の文化は、これほどのものがむざむざと消えるわけがない、という人々の祈りによって支えられていることが痛感される話である。
 敗戦直後には、強引に倉を開けろと要求する米軍将校を、体を張って阻止した奈良県知事らの話も残っている。
 よいものは、簡単には残らない。人々の目に見えない努力が、風雪を耐えぬく力を与え、それらの人間の姿に私たちは感動するのであろう。
 正倉院は毎年秋に、宝物の一部を公開する。奈良国立博物館の「正倉院展」である。今年は、十月二十六日から十一月十四日まで開かれる。天皇陛下ご在位十年を記念して、通例十七日間の展覧期間が二十日に延長された。聖武天皇の遺愛品として著名な鳥毛立女図屏風が六扇そろって出陳される。六扇そろっての出陳は、まことにめずらしいこと、と博物館側では言っている。
 もし、正倉院の区域内を見学する機会があれば、西南にある大仏池あたりをゆっくりと歩きたい。奈良でも最もおだやかな景観だが、もう四、五年ものあいだ歩いたことがない。昔のままのおだやかさでありますように。