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兵庫・明石海峡大橋 春の色のシンフォニー 99年3月号 兵庫県神戸市 |
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いま、明石海峡大橋の南の根っこに立っている。淡路島の北端から海峡をワイドスクリーンのように見渡している。 みごとな青のシンフォニーである。 春さきの海峡は、この世のあらゆる青い色をそろえてくれている。 手前の岸辺は明るいエメラルド、海峡の中ほどは深い黒潮、向こう岸の明石や垂水は浅い青緑、遠く山陽の山並みは、ただおぼろにかすむ。 青の諧調を縦に貫く白糸が、さっき渡ってきた明石海峡大橋である。往きかう船の航跡が横糸のようにからんで、絣模様をみるような心地よさ。 ただ、風が強い。激しく吹くとき、体ごと海峡にもっていかれそうになる。むかしの人はこの風に、さぞ心細かったであろう。船旅には、ほどよい風を何日も待たなければならない。 「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻汐の身もこがれつつ」 藤原定家の詠んだ「松帆の浦」は、ほら、目をすこし左に向けて。そうそう、すぐ下の岸辺にある。 いまはもう身を焼くこともない。わずか数分で大橋を通りすぎる。あっけないな、という気分は誰しも共通なのか、ゆっくり走る車も多かった。 |
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| 「ついこのあいだまで、私ども海を渡れずに身をもんだことがあります」と、大阪のある大企業の役員からきいたことがある。淡路島にご実家がある。その人のお父上の時代。大阪で「ハハキュウビョウ」という電報を受け取った。嵐で、安全第一の連絡船は欠航している。危険を承知で小船を借り受けて渡った。 平成十年四月の開通まで、淡路の人にとって橋は悲願だった。いまは橋を海上から見たい、と船に乗る人もいる。 松帆の浦から見えたのは、風や潮だけではない。対岸は日本史の展示場であった。源平の武者が盛衰をかけて戦い、行きつ戻りつした。豊臣や毛利は天下を争った。赤穂の浪士も走った。銃をもった薩摩や長州の隊列も通った。 淡路も歴史の圏外だったわけではない。古事記のイザナギ、イザナミの伝説はここが発祥の地。日本国を生んだ主舞台である。江戸期も明治以降も、対岸の情勢にすぐ対応した。菜種油の需要が高まったときは島全体が菜の花で埋まり、対岸の市街化が進むと果樹や野菜栽培が普及した。その豊かさから高田屋嘉兵衛のような人物もあらわれた。 淡路では三つ、訪ねたい所がある。 本福寺と野島断層、人形浄瑠璃館。 まず東浦町の丘に、本福寺を訪ねる。山道を登ると、円形の打ちっぱなしコンクリート壁がある。壁の切れ目に入る。壁と壁の間に細い道があり、渦状に上っている。頂きに出る。建物はない。まるい池に蓮が浮いているだけ。池の中央に下り階段がある。降りて池の下に潜る。細い渦状の廊下。回りきると畳の間がある。入って座ると、奥のご本尊と向き合っている。ご本尊の背後から光がさしこんでいる。 「夕日の射す時刻に行きなさい」 と言うひとがいた。ご本尊の背後から黄金の光がさし、まばゆいばかりだという。かつて淡路は西方浄土に近い聖地とされた。その思いが具現されている。山頂なのに、海を眺望する高い寺院を造らず、地下に潜る。あれもこれも設計の思想である。設計は安藤忠雄氏。 夕日を待つ時間がないのが惜しい。 |
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| 北淡町の野島断層へ。 一帯は「北淡町震災記念公園」として整備され、観光バスがつめかけている。 阪神大震災の直後、あれほど荒々しくみえた断層も、大屋根に覆われると人間に飼いならされたような静けさである。家族連れが見学している。ただ、主断層のずれを、真横から見たとき、あのすさまじい災害の悪夢がよみがえった。 いそいで、南淡町の淡路人形浄瑠璃館へ走る。館の奥に劇場があり、 「人間国宝鶴澤友路」 という表示がある。次の公演まで時間がある。館の裏に出てみた。目の前に、大鳴大橋があった。橋脚の下に白く泡立つ渦潮。観潮船だろうか、ゆっくり動く船がある。その向こう、手の届きそうなところに巨大な山々がある。四国である。 海峡を渡る風は鋭い音を立てている。もし、橋へ車を乗り入れれば一気に四国の地が踏めるだろう。ただ、あまりに軽々と海峡の旅を終えては先人に申しわけない。 とって返して、洲本市へ向かう。 どうしても見ておきたい所を思い出している。子供たちが幼かった夏、滞在したヨットハーバーわきのマンションである。道を迷うわけがないのに、かなり行きすぎて戻ってようやく見つけた。 あんなに目立ったヨットの群れが、新しいビルの林立に隠れてみえない。さーっとひらけていた海もみえない。 二十年の歳月が変えてしまったのである。焼くや藻汐の思いに、身も心も焦がれる切なさ。あたりを包みはじめた夕闇だけが、あのころのようにやわらかい。 |
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