歴史街道ロマン紀行

万葉の大気に満ちた藤原京・橿原

95年2月号 奈良県橿原市


 はじめて藤原京跡をたずねたのは、寒い早春の明け方だった。「ここだよ」といわれて車をでると、まだ薄暗い野に粉雪が舞っていた。
 やがて、東に連なる山々から、黄金の光がさしこんで雪をきらめかせた。光は森や林を黒々と彫りおこし、目の前の広野をゆっくり照らしだしながら広がってゆく。
 遠く近く、小高い山や丘が幾重にも重なり、濃紺から藍、薄紫へと色をかえ姿をかえる。 神々しいまでの美しさ。
友人も私も声をひそめてささやきあった。「あの太陽のでる山々は」「飛鳥のあたり」
 声をひそめなければ、この万葉の大気が消し飛びそうなのだ。「じゃ、いま頂に日がさした丘は、天の香久山だね」「そう。右手が畝傍山」「うしろが耳成山か」
 大和三山が都の跡の広野を三方から抱きかかえるように、浮かび上がってくる。しばらくは、ささやきあいも忘れてみとれた。
 さて、二十年後の今回、真昼の藤原京を再訪した。感動は…変わらなかった。市街地や車の騒音も山々にほどよく吸いこまれていた。
 藤原京は、もと飛鳥の山あいにあった大和朝廷が、初めて平野部におりて定めた都である。
 壬申の乱後の国の立て直しであった。律令制による初の国都、初の瓦葺宮殿、初の貨幣鋳造。
 すべて初めてづくしの、めでたい都であった。
 ところが、ここは持統、文武、元明の三代十六年間限りで、都は平城京(奈良)へ移り、恭仁、難波、長岡をへて、平安京(京都)へ、さらに遠く東の武蔵野へ去って、二度と戻らなかった。
 それからの藤原京は、野や田畑に埋もれ、正確な位置さえわからなくなった。その藤原京の地域一帯を包みこんでいるのが、現代の奈良県橿原市である。「あの原っぱで私、中学生のとき野外演習をやらされて」
 現橿原市長・岡橋四郎さんは、昨年十二月六日、遷都の日にちなんで開かれた「藤原京創都一三〇〇年記念歴史街道シンポジウム」の席上、思い出を披露し、拍手を受けた。
 戦前、橿原の名は全国で最もよく知られた地名の一つだった。
 記紀の伝承にいう神武天皇即位の宮があり、建国の聖地とされ、参詣や奉仕の人々が集まった。
 戦後はそのにぎわいも夢となったが、昭和九年から続けられながら戦争で中断した藤原京発掘調査が再開された。
 重要な発見があいつぎ、それまで諸説あった藤原京の規模や位置が確定してきた。調査後の整地も進んだ。その中心、藤原宮跡が、夜明けの万葉の大気を、たっぷり吸わせてくれたあたりである。
 その原で昭和十八年に演習訓練を受けた岡橋さんだが、ちかごろ気がかりなことがあるという。
 こんないい土地からなぜ、都はよそへ出たのか。移った先の奈良や京都は古都として栄えたのに、藤原京・橿原はなぜ、そうならなかったのか。
 中学生いらいの感傷もあるが、行政家となった今その確かな理由がわかれば、二十一世紀をめざす町づくりに役立つはずだ、という願いもこめられている。
 だが、藤原京には国の始めから現代までの人の暮らしが何層にも積み重ねられていて、その秘密をなかなか明かそうとはしない。
 おもいたって歩いてみる。
 飛鳥川沿いに東南へ。すこしずつ上り坂になるが、風のなごやかさに疲れを覚えない。
 そのままいけば甘樫丘になる。北寄りに道をとれば法然寺に万葉の森、妙法寺のあたりになる。
 どこを向いてもこの里は、自然と歴史の輝きに満ちている。