歴史街道ロマン紀行

兵庫・出石町 そばと紅葉と、誠実さ

96年11月号 兵庫県出石町


 秋は、出石である。
 紅葉が、山の頂から下りて、城も街も真っ赤に染め上げる。
 二十代の末に、私は出石城の石垣に寝そべって、それを実感した。眼下に出石の町が、深海の底のように静かに眠っていた。世は高度成長期にさしかかり、人々はみな都会をめざしていた。
 「キミも、考えなきゃ」
 神戸へ転任のきまった仲間が、横で、つぶやいたものである。
 私は出石に隣接する豊岡市で、新聞記者をしていた。出石も守備範囲である。時々スクーターで回る。事件は少ない。のんびりした日々である。東京や大阪にいる同期生が、署名入りの記事を書いているのをみると、ちょっぴり焦る。といったって、どうなるものでもない。いつのまにか私はこの但馬の静けさに慣れ親しんで、好きになってもいた。
「出石には桂小五郎が潜伏していたんだ」と、そのころ司馬遼太郎さんに教わった。
 司馬さんもまだ三十代。出版社の講演で山陰各地を回る途中だった。東南の山を指し「あの先の出石に」という。
 禁門の変で長州が敗れ、小五郎は出石の友人を頼って脱出、名も変えて荒物商を営む仮の姿。やがて京から追ってきた幾松と手に手をとって長州へ戻り活躍、維新の元勲・木戸孝允の名を残したという一席。『竜馬がゆく』などに詳しい。
 司馬さんは、弱輩の私を励まそうとされたのだろう。「ここは人材の育つ土地なんだ」と強調された。
 あの司馬さんから、こんな話を直接聞くという幸運に浴しながら、私はぼやいていた。小五郎は小五郎、ぼくはぼく。幾松みたいな人もいないし。
 紅葉の秋、大雪の冬、桜吹雪の春。
 出石はいつ訪ねても美しい所だった。出石そばにはなかなか出会えなかった。老舗の二、三軒だけしかなく、営業時間も限られていた。
 おどろきましたね。
 こんど行ってみると、そばの店が四十軒以上もあるんだそうで、それぞれ趣向をこらした店構えを競っている。
 「十年ほど前から急に増えましてね」と町のシンボル・辰鼓櫓近くの店で聞いた。「うちは十五年ほど前からですが、二百九十年前からのお店もあります。その店は、ええと左に曲がって……」と教えてくれる。
 またそのお店でも「うちよりもっと古いお店も」と教えてくれる。人々の誠実さは変わっていなかった。そばの味も町のたたずまいも、誠実そのものである。
 それにしても、なんというにぎわい。城も町も人で埋まり、深海のわびしさは消え、輝くような町に変わっている。
 といっても、小京都とよばれる落ち着きはそのままである。けばけばしさ、安っぽさが少しもない。
 「どうしてなんでしょうね」と、数日後、町役場に電話でたずねてみた。
 「町づくりに、みなさんいろいろ配慮しておられまして」という。
 出石の歴史は古い。かつて但馬一国の首都といわれるほどに繁栄した。明治九年の大火で中心部が焼失したが、再建の際古い町並みを踏襲した。だから江戸期の匂いがそのまま残っている。
 戦後も街を変えるほどの経済開発に恵まれず、それが町並みの保存に幸いした。建築学者からも注目された。といっても古い家が多いから人々の建て直しの欲求は強い。その際専門家たちから、町並みの景観をこわさず、しかも近代生活を享受できるようなデザイン上のアドバイスを受けられるような仕組みが設けられた。それで改築された町屋も、古い家と調和するよう工夫されたものが多い、という。
 たまたま電話に出た総務・浜本順一さんは、説明が的確で、出石の誠実さを漂わせておられる。聞けば、豊岡で新聞記者を経験されたという。時期は私よりわずかに後である。
 あのころ、こんな街があり、こういう方と出会えておれば、私も但馬に住みついただろうな、と思ったことであった。