歴史街道ロマン紀行 

現代の街に生きている聖徳太子の通ったみち
 太子道

93年11月号 奈良県斑鳩町


 すぐれたランドマークは、人の心の座標軸になる。
 新幹線の窓から富士を見るたびに、若き日、はじめて上京したときの初々しい自分を思い出す、といったぐあいに。
 奈良・斑鳩の里にある聖徳太子ゆかりの法隆寺は、千三百年余りも人の心をゆさぶりつづけた。これほどすぐれた人工のランドマークはほかにないであろう。
 土塀に囲まれた寺域をゆくと、数十年前、母を失った年の暮れ、うつろな気分で歩いたことや、子供が小さかったころ、この砂利道で転んだことなどを思い出す。
 いまは、五重の塔も家々にかこまれて遠くから見えない。JR法隆寺駅からも西名阪自動車道の法隆寺インターからも、ほぼ一キロ前後しかないのに。「私の子供のころは富雄川からもよく見えました」と斑鳩町の南隣にある安堵町役場の助役、中川喜久二さん(67)はいう。
 富雄川は法隆寺のすぐ南を流れ、越えると安堵町になる。
 一帯は、大和盆地のおだやかな田畑や森がつづき、少年の中川さんはよく先生につれられて歩いた。「ほら、ここが太子さんの通られた道だ。ここから向こうの法隆寺へ歩いていかれたんや」
 先生は”太子さん”と敬愛の念をこめてよんだ。道には小さな道しるべが残っていた。そのうちに中川さんは”太子道”の道すじをすべて、そらんじてしまった。「太子さんは、飛鳥の都をでていったん南へ下がり、十市(田原本町)から西へむき、多(同)へ出て、あとは北へまっすぐ、高安(斑鳩町)にむかわれたのです」
 一万四千分の一の地図に、ためらうことなく色鉛筆でその記憶の太子道をかきこむ。
 それは田畑のあぜ道を通ったり、現代の生活道路に合流したり、関西本線(大和路線)を横断したり、斑鳩町東福寺あたりで国道25号線と交差して、中宮寺よこを通り、迷うことなく法隆寺の東南角までたどりついている。
 古代の大和盆地には、幹線道路が多くあり、直線道として南北に通る上ツ道、中ツ道、下ツ道、東西に通る横大路などがあった。
 ほかにこれらを斜めに横ぎる斜道があり、筋違道とよばれた。
 これが古文書『古今目録集』に聖徳太子がお使いになったとあり世に太子道とよばれた道である。
 その距離、片道二〇キロ。言い伝えでは、太子は名馬「黒駒」にのり従者「調子丸」をしたがえ、悠々とゆかれたらしい。
 赤いマーク入りの地図をたよりに歩いてみたが、通る人の誰ひとりその道を知らない。なかには、「タイシドーですか?」と首をひねる人もいる。
 富雄川ぞいの斑鳩町側にこぎれいな公園があった。表示に「歴史街道ネットワーク中継点・太子ロマンの道」とあり太子道の由来と地図も出ている。
 そのままたどっていく。
 太子が飛鳥を早朝に出てこのあたりにくるころは夕暮れ。黒駒もやや足どりをはやめ、その鞍に弁当代わりの干飯をいれた竹筒が揺れていたかもしれない。「太子道の道筋には種々説がありまして」真剣に迫られると困りますがと斑鳩町の文化財関係者。数年前、東福寺あたりからの古道の跡らしきものが発掘されて注目されたことはあったが、まだ確たる道筋は決定していない。「ですが、そういう道があることを知っていただくだけでも嬉しいです」。
 振りかえると、いまたどった太子道の跡も、団地や歩道橋、護岸堤防などに埋もれて、見えない。国のまほろばも、夕闇にかすむ凡々たる現代の町になっている。
 太子道はもうランドマークにはなれないのだろうか。大切なものが手の指の間からすりぬけていくような気分である。