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女の祈り男の命、そして城のまばゆさ 姫路 95年7月号 兵庫県姫路市 |
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姫路城は、遠くからみてもちかづいても、まばゆいほど明るい。その天守閣に上る。 「ここにぎっしり人が立つと、五百人は入れますよ」 天守閣の最上階で知りあった地元の人はいう。そこには、フランス語を話す外国人客数人がいただけで、そのせいか、最上層の板張りの床が広くみえたが、実は約一一五平方メートル(三四・八坪)のスペースしかない。 くびをかしげる私に、「むかしから、そう教えられましたよ」とその人はむきになった。 あの阪神大震災で姫路市は震度四だった。この人の木造の家も、悲鳴をあげた。揺れがおさまると飛びだしてすぐ天守閣を仰いだ。すっくと立つ姿をみて、ようやく気持ちが落ちついたという。 JR姫路駅から「五十メートル道路」を歩くと、ほぼ十五分で城の大手門に着く。近い。 もっとも駅前広場あたりに旧外濠があったといわれるから、旧市街地の全体が城郭といってもいい。 人々は朝も夕も城をみる。城とともに生きている。 古来、これほどのランドマークと、豊かな後背地、さらには西国と京、江戸を結ぶ山陽道という、巨大な人と物と情報のルートに恵まれた土地はまれである。うらやましいほどの立地である。 だが、城が美しければなおいっそう、そこに繰り広げられた男たちの命のやりとり、女の祈りの深さがおもいやられる。 |
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| 万葉のむかし、この姫山は桜咲くのどかな丘であった。南北朝の動乱のとき、豪族・赤松則村が、元弘三年(一三三三)はじめて砦を築いた。異説もあるが。 毛利攻めで、秀吉は姫路を拠点として転戦し、ここに初めて天守閣を造った。 徳川の時代、池田輝政が関ヶ原合戦の功績で慶長五年(一六〇〇)城主となった。八年の歳月をかけ大・姫路城を築いた。 城主は、短い期間でよく代わったが、寛延二年(一七四九)、酒井忠恭が城主となったあとは、その酒井家が明治の版籍奉還まで百二十年間、地位を守った。 幕末、家老の河合隼之介の私塾・仁寿山學で学んだ若い武士のあいだに、勤王の動きがおきた。だが、藩主は佐幕派である。打ち首や投獄があいつぎ、これに抗議して自刃する人がでた。 明治元年、新政府側は城を威嚇射撃し、ついに開城となった。 ざっと、以上は男の歴史。 女性の名も多く残っている。 まずは、あの千姫。 池田家のあとの城主・本多忠政は、美丈夫の嫡男・忠刻と、その妻・千姫も伴った。 忠刻は、宮本武蔵を指南役として剣に励んだ。千姫は、自ら選んだ夫の頼もしさ、誕生した男子のかわいさに、大坂落城の悲劇も忘れて、幸せの永遠につづくことを祈ったりしたのだろうか。 それもつかのま、男子は早世し忠刻も三十一歳の若さで去って、千姫は江戸へ戻り、出家した。 |
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| 井原西鶴や近松門左衛門で知られる「お夏清十郎」や、家伝の皿を隠されて(江戸では割ったとされている)手打ちにされる播州皿屋敷の「お菊」、あるいは、城主が国を傾けた遊女「高尾」の物語など−この城のまわりには、男にせよ女にせよ、城に負けないまばゆさをもつ人が多いようにみえる。 ちなみに、城内に千姫ゆかりの櫓や長局、お菊の井戸が残っている。また皿屋敷の話は全国各地に類似の話がみられる。 天守閣で出会ったフランス語を話すグループは、ベルギーやオランダからの旅行者だった。 若い女性の一人は高校生のとき姫路城の写真を見て、「妖精の住まいみたい」とうっとりした。以来姫路城はあこがれの地となった。 初夏の日ざしに金茶色の髪がきらめいて、千姫やお夏の悲劇も、遠い昔である。 |
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