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奈良・榛原 伊勢街道の通るまち 98年12月号 奈良県榛原町 |
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「伊勢街道」と呼ばれる道は、全国至るところにある。生涯に一度はお伊勢さんに、と願った人々が踏み固めた道である。どこにあってもおかしくない。 ところで「榛原町(奈良県宇陀郡)に行けば、二つの伊勢街道を一度に歩くことができる」と言う人がいた。 そりゃいいと重い腰をあげ、家人と二人で榛原の町を歩く。古い細い道。植え込みのカキが色づいている。 道沿いの理髪店で聞く。「あぶらや、はどこですか」「あぶらやさんは…」と女主人らしい人がていねいに教えて下さる。総じて街道筋の人は見知らぬ者にも親切である。 あぶらやは古い旅籠だ。本居宣長が明和九年(一七七二)に泊まっている。 その、あぶらや、の前で、 伊勢本街道 伊勢表街道 の二つが分岐している、という。分岐して伊勢をめざす、ということは、伊勢からくればここで合流しているわけだ。そこを歩けば二街道踏破が実現する。 あぶらやは見当たらない。左手の新しい建物に入ると榛原町立図書館である。司書と思われる人が、「いま通って来られたところにありますよ」という。 なるほど見逃していた。古さびた堂々とした建物である。 |
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| このあたり、江戸期は札の辻と呼ばれる高札場であった。旅籠やみやげ店が軒を並べて賑わった。いまは人通りも少ない。あぶらや、も黒光りする格子戸の奥で静まり返っている。 古い石標や常夜燈がある。道は舗装され、伊勢本街道の真新しい表示もある。 さて、これから、どこへ。 本街道を歩こうと思いますが、と司書氏に聞くと、「バスで行かれたほうが」と運行時間表をコピーして下さる。こちらの、歩きなれない風体を見て判断して下さったのであろう。 内牧田行きのバスで内牧川に沿って約十分。降りた高井の停留所前に数本の石標がある。一番古そうなものは「寛政十二年」の建立である。 「右いせみち 左室生山女人高野」 とある。道沿いの家できくと、右でなく、左が伊勢街道とのこと。おやおや。 左は上り坂である。鬱蒼と茂る大木が頭上を覆って暗い。心細くなりかけたころ、城郭のような石壁が見えてきた。 大柄の年配の男性が立っている。 伊勢街道はこちらですか、ときくと、「はい。ここです」と手にした杖で地面を叩き、「ここで、弘法大師さまが、わたしどもの先祖に、道をお尋ねになったんですわ」という。 まことに唐突だが、ごく自然な物言いで、すなおにこちらの耳に入った。 「ほう、ご先祖さまに、ですか」 「はい。わたしの十九代前です」 この人はゆっくりと「そういう言い伝えがあるんです。千年以上も昔のことではっきりしませんが」とほほ笑む。 そこは旧旅籠・松本家の入口であった。この人は当主の松本太郎さん(八五)である。何代か前に旅籠の営業はやめたが、建物に名残がある。 「御宿 松本重蔵」と先祖の名を刻んだ看板もある。宿の字に、にんべんがない。人だけでなく馬も泊めたからだという。建物は二百八十年前のものだとか。公家や大名を泊めた棟もあったが、いまはない。太郎氏と夫人・美佐子さんが、こもごも語る松本家の物語は面白い。千年前、百年前と現代の話題がなんの注釈も抵抗もなく、入り交じる。 松本家を出ると、胸をつく坂道が林の中へ消えている。そのずっとずっと先にお伊勢さんがある。痛み始めた脚をさすり、昔の人の健脚をしのぶ。 |
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| 榛原の町に引き返し、どうしても行きたいと思っていた所に行くことにした。 八咫烏神社(榛原町高塚)である。 芳野川沿いにバスで行く。ガソリンスタンドの向かいに鳥居があり、その奥の山懐に社殿がある。 「サッカー関係のお参りが多いんじゃないですか」と聞いたら、境内にいた人が、きょとんとして、やがて、顔いっぱいに朴訥な笑い皺をつくり、 「どなたも見えませんなあ。ワールドカップのヤタガラスは、どこかよそから飛んでいったんでしょうね」という。 『続日本紀』『大和志』などによれば、神武東征のみぎり、三本の足と八個の頭をもつカラスが現れ、帝の軍を勝利に導いた。三本足のカラスといえば、サッカー日本代表のシンボルも同じである。 ここが、その本家でしょ、と意気込むわたしに「まあ、大昔のことで、なんにもわからないんです」。 あの、松本家のお年寄りに似た、のどかな答えである。昔のことは、のどかに思うほうがいい。 七十段ほどの坂を上って、奥殿に詣でると、裏山でカラスが鳴いた。 |
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