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福井・一乗谷 非運と幸運を織りなす“城下町” 99年6月号 福井県 |
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目の前に真っすぐ通る道。チリひとつない。赤茶色の土塀にも、傷跡ひとつない。立ち並ぶ家から、物音ひとつ聞こえない。 SF映画の、無人の世界にでも迷い込んだような……。 あ、人がいる。ぎくっとする。 ゆっくり近づくと、等身大の人形である。男が二人、将棋盤のようなものを挟んで興じている。 さっきまで、騒々しくしゃべりあっていたバス旅行の一団も、いつのまにか声をひそめてしまった。 国の特別史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」。十五世紀の半ばからおよそ百年、越前の支配者・朝倉氏が五代にわたって栄華を誇った山城と城下町の跡である。遺跡の保全といっても、発掘された礎石を公園の敷石ふうにして保存している所が多い。ここは礎石の上に、考証された室町期の家屋を再現した。 いわば、歴史の立体展示場である。 |
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| 一乗谷の歴史は数奇に富んでいる。これほど、非運と幸運がないまぜにからみあった所もまれであろう。 この町を築いた朝倉一族は、日本史上の乱や変につきまとわれ続けた。 まずは承久の乱(一二二一)である。但馬国(兵庫県)の名門であった朝倉氏だが、負け組の公家方について家勢が衰えたらしく、越前の守護、斯波氏に従う形で越前入りした。 守護は幕府権力の代行人である。権勢を振るう。とくに斯波氏は幕政の中でも細川・畠山と並ぶ実力者であった。全盛期には幕府の後継者を左右したほどである。織田信長の織田家の祖も、もとはといえば斯波一族の支配下にあった。 ただ斯波氏は内部で争いが絶えない。朝倉氏は力を蓄え、衰微した斯波氏に取って代わるようになる。 応仁の乱(一四六七〜七七)。朝倉氏の朝倉孝景(初代)は初め西軍だったが東軍に寝返り、その功によってか守護に任ぜられた。 このとき文明三年(一四七一)。朝倉氏は一乗谷を越前の首府とした。美濃街道と北國街道の接点という交通の要衝である。築城地としてもまた絶好。山上に城が築かれ、谷あいに町が造られた。 朝倉氏は幕府の高位に加わり、天文四年(一五三五)には、後奈良天皇の即位の大礼のために一万疋の銭を献上した。 一乗谷には京文化が移された。寺院、庭園、武家屋敷、町家、職人、暮らしぶり。さきに紹介した将棋ふうの遊びもそれである。 このあたりは朝鮮半島からの船の到着地に近い。海外の文物も豊かに入ってきた。北陸の山また山を抜けてきた旅人の目には、「ここは京の都か」と疑われるほどの繁華な町になった。 が、すぐに戦国の動乱が始まる。 朝倉義景(一五三三〜七三)の代になる。おそらく義景が終生、思い出したであろう緊迫の事態が起きる。 室町幕府の第十三代将軍・足利義輝が永禄八年(一五六五)、松永久秀に殺害される。その弟、義秋(のち義昭)は、朝倉氏を頼って一乗谷に来る。 「余と共に上洛を」と義昭は願うが、義景は断る。あきらめた義昭は、信長のもとへ走る。信長は義昭を奉じる名目をもって上洛の野望を果たし、天下統一へ駒を進めることになる。一乗谷の朝倉氏は、みすみす信長という凶暴な虎に翼を与えてしまったのである。しかも、翼を得た虎は朝倉氏へ襲いかかる。朝倉氏も応戦して、ときには信長を追い詰める。 しかし最後は、味方の裏切りもあって信長に敗れる。無惨なことに義景は、同盟者の浅井久政・長政父子とともに、金漆を塗られたドクロ杯となって信長の酒宴に晒されたと伝えられる。信長の残虐さを示す話である。 |
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| もし、が許されるならば、信長と義景の立場は逆転していたかもしれない、のである。一乗谷は焼き払われて、以後、越前の中心は北庄(福井市)に移り、二度と一乗谷に戻らなかった。 だがこれは、文化遺跡の保護には幸運となった。表土は耕作されたが、地下の遺物はそのまま保全された。その幸運は現代にも続き、地元の人々は高度成長期やバブル期にも工場の誘致やゴルフ場開発に走らず遺跡保護の道を選択した。 昭和四十六年(一九七一)に国の特別史跡に指定された。遺構が発掘された庭園は特別名勝に指定された。 一乗谷の記録『朝倉始末記』に、町並みの通りの名が記載されている。これに発掘された遺跡はぴったりと一致した。 たとえば、第二次世界大戦の空襲に被災しなかった日本の多くの町村が、都市化の波に浸食されていったことを思い合わせると、まことに皮肉な幸運である。 見学を終えて振り返る。一乗谷の家々の中に動かない住人たちがいる。ご先祖様の姿そのままを演じながら、すこし名残惜しそうにみえる。 歴史は悲しみを癒す術を、少しは知っているのかもしれない。 |
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