歴史街道ロマン紀行 

美しく、しかも緊張感に満ちた
古代史のふるさと 飛鳥の里

94年4月号 奈良県明日香村

 
 うたがいもなく飛鳥は、日本で最も美しい里のひとつである。しかも、その美しさは緊張感につつまれて、訪れる人に行楽地めいた馴れを許さない。
 それは、どこからくるのか。
 みごとに保存された古代史の景観からなのか、それとも。
 とかんがえながら甘樫丘への道を上る。展望台で一気に視界がひらけた。目の下に飛鳥川。豊浦宮跡(とゆらのみやあと)や雷丘(いかづちのおか)の森をぬって流れる。
 声がした。「正面は耳成山、左は畝傍山。右は?」
 高校生が数人。先生らしい人が説明しつつ質問している。
「天香久山!」と元気な答えが返った。きけば、東京は東日暮里の竹台高校の修学旅行で、国文担任の出井衛一先生が説明しているところである。
 関東の高校生が大和三山をすぐみわけてくれるなんて。横にいた地元の人が「東京からですか」と話に加わった。そして、
「都の人が都の先輩を訪ねてくれたんですね」
 という。この人の胸の中では、飛鳥と東京が「都」として同列である。いや、こちらが先輩だよ、と自負さえみせている。
 この自負こそ、飛鳥の美しさを保ってきた力なのかもしれない。
 古墳時代から、ここは大和の国の中心であり、飛鳥時代には大和朝廷が飛鳥各地に宮殿を建てては移りつづけた。豊浦宮は推古天皇の宮殿であり、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の飛鳥川原宮など、すべて現代の明日香村(奈良県高市郡)の域内か、その周辺にある。
 ここを舞台に、蘇我氏の繁栄や聖徳太子の出現があり、大化改新へとすすむ。
 日本の「都」は北進南転をくりかえし、平城京から平安京へ、そして東京へとうつった。
 さてと、レンタサイクルで東南に走り、石舞台へゆく。
 石の上に乗らないでください、と標示がある。石組の下にもぐってみる。天井石七七トン、全体で二三〇〇トン。巨石の威圧感はすごい。いそいで外へ出る。
 ここを死後の世界に選んだ権力者は、埋葬後、覆土をはぎとられ盗掘されるまでのいく年月、この威圧感に堪えたのだろう。
 その人物とは蘇我馬子という説がある。『日本書紀』二十二巻にでてくる桃原墓がここだという。
 推古天皇の三十四年(西暦六二六年)は天候不順で大飢饉もおきた。「春正月桃李の花が咲いた。三月に霜が降りた。夏五月に大臣(蘇我馬子)が亡くなった。よって桃原墓に葬られた。六月に雪が降った」
 別の巻にいう。「桃原墓の築造に大臣の親族が集まり、小屋をたてて泊まりこんだ。不満をもらすものがいて、争いになった」
 難工事に、桃の花の下で人々は苦痛にうめいたであろう。そういう怨念の蓄積もまた、飛鳥の里に緊張感をかもしだしている、といえなくもない。
 現代の石舞台は梅、桃、桜に囲まれた公園になっている。花の下で弁当をひらく人もいる。「ここは桃と桜が一緒に咲きますよ」と拝観所の人がいう。
 石舞台は西南の斜面にある。夕日が照りつける。毎年四月の上中旬、桃と桜がいっせいに咲いて、その夕日にかがやく。
 開発か保存か。論議は他の土地にもましてきびしかった。飛鳥は独力で古代史の保存をなしとげ、古都保存法の「古都」に位置づけられたが、住んでいる現代の飛鳥びとには、保存にともなう苦労もおおきい。
 開発の波は足もとにせまっている。それをおもい、あれをおもうと、やっぱり、訪ねる者は緊張してしまう。