北条泰時は逡巡した。それは夜来の豪雨で、濁流渦巻く宇治川の激流にすくんだのではない。対岸の敵陣に錦の御旗が金色に輝くのを見たからである。彼は軽いめまいを覚えて、目を閉じた。その暗い瞼に、昨日までの出来事が走馬灯のようによみがえってきた。
思えば、一カ月前、後鳥羽上皇が倒幕の院宣を下された。幕府では急ぎ軍議が開かれ、北条政子が朝敵の汚名を着せられて動揺する諸将を前に、
「武家の今日の地位を築いた夫頼朝公の恩義を忘れてはならない。結束して、この危機を乗り切りましょう」
と涙ながらに訓示し、直ちに京へ征討軍を差し向けることとし、総大将に泰時が任命された。しかし、泰時は「帝(みかど)に弓引くは恐れ多し」として、ちゅうちょし出陣を渋った。
再度、軍議が開かれ、政所別当の大江広元が
「決定したことは直ちに実行すべし。泰時殿一人にても、直ちに討って出られよ」
と厳しく言い、政子もこれに同調した。
泰時は悩みつつ夜半、鎌倉を発した。従うもの十八騎のみ。しかし、幕府の断固たる決意をみてとって、諸国より軍兵が馳せ参じ、宇治川に対陣したときには、十万余騎になっていた。
敵陣を前にして、立ちすくんでいる幕府軍に朝廷軍は一斉に矢を射かけてきた。その時、泰時は
「十万余騎のつわものどもが命を自分に託している。武家の政権を守るため、戦うのみ」といままでの迷いがふっ切れ
「幕府を倒さんとするものは何びとたりとも許すまじ。いざ目もの見せん。ものども続け!」
と叫んで、太刀を抜き放つや、ざんぶと濁流に馬を乗りいれた。忽ち、十万の大軍は川を埋めつくして渡り、朝廷軍を討ち破って京へ攻め入った。承久三年(一二二一)六月の世にいう承久の乱である。
はげしい歴史の流れをみてきた宇治川は、今日もとうとうと水をたたえて流れている。
1991年10月掲載
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