歴史街道を行く <68> 真木嘉裕  
戦国〜江戸時代
ゾーン

大阪城  城攻めの秘策


 大阪城の大築城工事を終えた豊臣秀吉は、いつになく上機嫌であった。お気に入りの荒小姓衆を集めて、酒をのみながらいくさ話をしていた。
 「どうじゃ。わし亡き後、誰が天下を取る器量をもっていると思うか」
 このタブーと思われる質問に、荒小姓衆は息をのみ、重苦しい沈黙が続いた。しびれを切らした秀吉に催促されて、恐る恐る、徳川家康、前田利家、毛利輝元などの名前をあげた。
 秀吉はにこりともせず盃を傾けていたが、やがて苦々しく言った。
 「いいや違う。それは黒田官兵衛じゃ。わしがこれまで何度か息づまるような苦境に立ったが、官兵衛はすらすらと妙案を考え出した。官兵衛がその気になれば、天下を掠め取ることぐらい難ないことじゃ」
 「でも、関白殿下。天下を狙うにも、難攻不落の大阪城がございます。『智謀、神の如し』といわれた官兵衛どのも、歯が立ちますまいに」
 言う通りに、大阪城は二`四方を城内にとりこんだ総構え。しかも、三重四重に堀や石垣をめぐらし、五層七重の天守閣をはじめ、二の丸、三の丸まで備えた大城塞だけに、こう思うのも、無理はない。
 「いいや、そうは思わん。わしは官兵衛の計略を用いて、幾多の城を攻め落としてきた。いかなる城も落ちないものはないのじゃ」
 荒小姓衆がキョトンとしていると、秀吉は酒に酔ったのか、大変なことを言い出した。
 「官兵衛なら、こんな計略を考えよう。まず猛烈に攻めたてて城方を震え上がらせたうえ、一旦和睦の祝い酒に酔いしれている間に、さっさと外曲輪(そとぐるわ)を取りこわし、堀を埋め、城を裸に剥いてしまう。その上で攻めかかれば容易に落とせる」
 この話を伝え聞いた徳川家康は、後年、秀吉が洩らした通りの戦略で、大阪城を攻め落とし、豊臣氏を滅した。 

1992年7月28日掲載