歴史街道を行く <45> 真木嘉裕  
奈良時代
ゾーン

大仏殿炎上  仏罰あな恐ろし


 「火を放つな!」
 平重衡が叫んだが、遅かった。南都征討の平家武者が、太刀をきらめかして大仏殿に突入し、火を放った。ゴーという音をたてて、紅蓮の炎が上った。僧兵とともに、寺の女、子供が悲鳴をあげて、大仏殿の二階に逃げ上った。重衡が
 「女、子供には手をかけるな!」
 と命じる間にも、炎は階段をはい上り、大仏殿は炎熱地獄と化した。
 やがて重衡は恐ろしい光景を見て息をのんだ。あの金色の大仏が、炎に焼かれて、白熱の光を放って、頭から胸へと溶け崩れていくではないか。
 平家物語はいう。「治承四年、大仏の御頭は焼け落ちて大地に有り、御身は鎔合(わきあい)て山の如し。大仏殿には焼死者千七百余人とぞ」
 罹災の翌年より、俊乗房重源上人が全国に勧進を行い、源頼朝の支援をえて、復興に努めたが、大仏殿を復元するには、十五年の歳月を要した。
 この大仏殿は戦国時代に、またまた全焼する。永禄十年、大仏殿に本陣を構えた筒井順慶、三好三人衆の軍勢に松永久秀が夜討ちをかけた。久秀がわめいた。
 「ものども、一兵も残らず討ち果たせ」
 たちまち闇の中での乱戦となった。押しつ押されつ、おめき合いながら戦った。そのとき、かかり火が数基倒れ、火の粉を舞いあげて、炎が四方に飛んだ。折からの強風にあふられて、大仏殿は夜空を赤々と焦がして全焼し、大仏の頭、左手が焼け落ちた。
 その後百余年、焼けただれたままになっていたが、公慶上人が諸国勧進を行い、将軍徳川綱吉の援助をえて、宝永年間に至って、再建をなしとげた。
 南都征討を命じた平清盛は、全身火のような高熱の病気でなくなり、久秀も信貴山城の落城のとき、火中に死した。人々はこれを見て、
 「こは大仏を焼きし仏罰にてあるらん」
と言ったという。

1992年2月18日掲載