「信長はんって、どんなお方どす?」
「尾張の国の大将としてな。駿河の今川義元はんを討ち果たし、美濃、近江を怒濤のような勢いで攻め滅ぼして、上洛しやはったお方どす」
「へーえ、えろう強いお方どすなあ」
「それに、合戦のたびに、敵の首を千も、万もとり、生首を眺めながら、お酒を召しあがるそうどす」
「おーこわ。そやけども、東寺のご本陣へ、黄金か何かをもって、戦勝祝賀のご挨拶にいかんとあきまへんやろなあ」
永禄十一年、将軍足利義昭を奉じて、上洛した信長に京の町衆は戦々恐々としていた。
当代一といわれた連歌宗匠の里村紹巴(じょうは)は、口もとに皮肉な笑いを浮かべて、町衆の話を聞いていた。
「田舎大名の信長。いかほどのものかな?」
紹巴は信長の人物を試そうとして、扇を二本、さんぼうにのせ
「二本(日本のしゃれ)手に入る今日のよろこび」
と連歌の下の句をもって賀を述べると、信長は即座に
「舞い遊ぶ千世万代の扇にて」
と上の句をよんで、にっと笑った。
この話がたちまち、洛中に広がり、稀代の乱暴者という不安や懐疑は消し飛び、信長を敬畏のまなざしで見るようになったという。
仏教嫌いの信長が東寺を本陣としたのは、国家鎮護の東寺を天下統一を目指す武将のシンボルとして利用したのである。それは、平安建都の際、桓武天皇が都を譲り、国を鎮める勅願寺として東寺を建立されたからである。
東寺は爾来千二百年、幾度も兵火、雷火、台風による災害をうけながらも、天皇はじめ時の天下人により、その度復興され、平安時代創建時のおもかげを今日に伝えている。
1991年10月掲載
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