明治十八年。大阪の川口居留地桟橋に船より降り立った中国青年に、宋さんが声をかけた。
「呉くんですか。待ってたよ。行くあてがないんだったら、うちの店で働かないか。同じ寧波(にいぽー)の出身だし」
呉錦堂青年は早速と、川口の南京雑貨店に店員として住みこみ、中国の筆墨、扇子などを売り歩くことになった。目端が利く上に、商売上手であった。小金がたまると、彼は独立を決意した。
「宋さん。神戸で貿易を始めようと思うんだ」
「それよりも、中国料理屋をやればいいのに」
「いや、これからは、中国を相手にしての貿易の時代が来ると思うよ」
彼はこう言って、「怡生号」という小さな貿易商を開いた。神戸産のマッチ、ゴム草履、中国産の菜種油、大豆から始めて、品目を次第に広げていった。やがて、輸送費を圧縮するため、中古の汽船を買い入れ、日中貿易や日露戦争での軍需輸送で大いに儲けた。
「神戸港とともに、市街地が大発展するはず」
彼はこう予測し、不動産を買いすすみ、須磨、舞子にも、その手をのばした。セメント、紡績などの事業にも携わり、小財閥といわれるほどになった。しかし、彼は金を儲けるだけでなく、郷里に養蚕学校を建てたり、神戸同文学校の創設に貢献したり、社会事業にも惜しみなく金を使った。
大正二年、中国革命の父、孫文を中国国民党神戸支部長として、舞子の別荘松海荘に迎えてもてなした。この本館の前庭に、正八角形三層尖塔型の別館があった。遠くからは六角形に見えるので六角堂と呼ばれたが、正式には移情閣という。八方の窓から見ると、明石海峡、須磨浦、六甲の山並みと、情景が移り変わるところから、この名称が生まれたという。また、彼が海の彼方の故郷に、思いを馳せたところからこの名が生まれたともいう。
移情閣は現在、日中国交回復を記念して、「孫中山記念館」として、孫文関係の資料を展示公開している。
1991年掲載
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