「お父上。第一条の『和をもって貴しとなす』とはいかなることでございましょうか」
山背大兄王(やましろおおえのおう)が「十七条の憲法」について聖徳太子にお尋ねになりました。
「そなたもよく存じおろうが、豪族たちの争いが絶えぬ。磐井の反乱、大伴、物部の抗争、さらに物部と蘇我の戦い」
「そのたびごとに天下は乱れ、民は塗炭の苦しみをいたしております」
「その上にじゃ、国外を見れば、半島では新羅がわが任那(みまな)の日本府を滅ぼし、大陸では隋が大帝国をつくりあげた。内外ともに多事多端。わが国の行く末が危惧されてならん」
太子は憂い顔をされてお続けになりました。
「昨年、『冠位十二階』を制定し家柄にとらわれず人材を登用することにした。一日も早く、一君万民の強力な国をつくらねばならぬのじゃ」
「父上。そのためには万民の心のよりどころとなるものを決めるのが先決ではありませんか」
「その通りじゃ。それが、第二条に言う『篤く三宝を敬え』ということぞ」
「三宝と申しますのは?」
「三宝とは、仏、法、僧。仏とは悟りを開かれた仏陀。法とは仏の教えで、心のよりどころとなる仏典。そして、僧とは仏の教えを行う人びとの集まりをいう。わたくしは仏教の理念をもって天下を治め、理想国家をつくりあげていこうと思っているのじゃ」
太子は「十七条の憲法」の精神に基づき、国家の立て直しに専念されました。太子の御徳により争いもなくなり、国威も高まりを見せました。
新羅より使節が来朝するようになったのも、遣隋使に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつが無きや」という国書を持たせたのも、太子が国政を改革し、対等外交を目指して国力を培ってこられたあらわれと申せます。
1992年6月29日掲載
|